明けまして、おめでとうございます~~!!

去年、某ブログで

「国際(コクサイ)人」と【国際(くにぎわ)族】の違いについて

以下の様に書きましたが(一部加筆)

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両者の最大の違いは
【国際(こくさい)人】が、自分の意思で「なる」のに対し
【国際(くにぎわ)族】は、自分の意思ではなく
生まれつき、或いは、自然に、いつの間にか、徐々に
「そうなっていた」というところにある。

そして
【国際人】は、100%帰属できる「国」を
当然のごとく無意識に持っているが
【国際(くにぎわ)族】は、100%帰属できる「国」を持つためには
自らの意思で選択するなり努力するなりの
行動が必要だ。それでも持てない事もある。

【国際人】は、
「自分が何人であるか」は
「自身が決める」ものであると信じていることが多い。

【国際(くにぎわ)族】は、
「自分が何人であるか」を決めるのは
結局のところ、他人なんだな....と
他者から気づかされる事が多い。
そして、それを自覚した時
自分が【国際(くにぎわ)族】であることに気づく。

【国際】と名のつくところには
実は、【国際人】の方が多く出現する。

公の場だけではなく、例えば、いわゆる
「国際結婚家庭」のような私的な場にも
むしろ【国際人】の方が多かったりする。

【国際人】は、
特に、自身の帰属する国に居住していない場合
自国(&自国文化・母語)への誇り・○○人であるという意識を
高める傾向がある。

その誇りは、輝かしい。
だが、【国際人】自身は、自身が持つ
まばゆい「銀の匙」に気づいていない事が少なくない。

誰もが「銀の匙」を持っているわけではない。
「銀の匙」は、あくまでも与えられるものだ。

もちろん、この「銀の匙」が
「義務」となり、時には「重圧」となることもあるが
この銀の匙の特権(というより包み・覆い・保護か...)に
本人が全く気づいていないことが多い。
そして、それに気づいていない【国際人】は
【国際(くにぎわ)族】という存在に戸惑うのではないだろうか?

国際結婚家庭や、移民家庭でも
【国際人】である親は、【国際(くにぎわ)族】の子供に戸惑うだろう。
家族という別の「包み」が、その戸惑いを優しく覆うことも
覆いきれないこともある。

国際人である親が【国際(くにぎわ)族】である子を
理解できなかったり
理解しようとしなかったり
国際人にさせようと努力したりすると
【国際(くにぎわ)族】である子供にとっては
なかなか辛い状況になるだろう。

それでも、オスカー・ワイルドの言葉
「子供は、親を愛することからはじめ
のち、親を批判するようになり
最終的には親をゆるす」ように
【国際(くにぎわ)族】の子供は
【国際人】の親に対しても寛容になるだろう。
「まぁ、こんなもんだろ」と....

周囲の国際人、そして
国際とは無縁の人々に寛容であるように....

親も【国際(くにぎわ)族】であったら
子供が自身も【国際(くにぎわ)族】であることに
気づく頃には、それが「当たり前の状況」に
なっており、「銀の匙」への憧れなど
感じもしないかもしれない。

【国際(くにぎわ)族】は、私が
いつもの如く安易に「窓際(まどぎわ)族」にかけて
造った言葉なので
特に深く考えず「族」という字を使っただけで
「族」で、あえて、団結を促しているわけでも
共感を促しているわけでもない(^^;)。

ただ、ひょっとしたら、無意識のうちに
「【○○人】になれないから【○○族】」と
「族」を付けたのかもしれない、と、後にして思った。


========(以上)


今現在、こんなことを思っております。

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前回ブログで書いた「人種偏見」だが
何故、「人種差別」という言葉を使わなかったかというと
「racism」には、人種偏見も含まれているからだ。

「差別」は漢字熟語では、中国語で
【差別(chabie)】とは、単に「違い」という意味だ。
日本語の「差別」は、中国語では【岐視】という。
分け隔てて排除するという意味がある。

偏見は、観念で
差別は、行動だとする。
行動をしなければいいのでは無い。
観念から行動が起きる。

だから、偏見それ自体が、既に差別なのだ。

【国際(くにぎわ)族】は偏見に出遭いやすい。
それも、まだ
偏見に対する免疫の出来ていない幼少時に
思いっきり体ごと遭遇しがちだ。

「国際(コクサイ)人」が偏見に出会うのは
既に免疫を擁した年齢であることが多い。

こうやって
「国際(コクサイ)人」と【国際(くにぎわ)族】の
違いを並べてはいるが
ことさら両者を分けて「差別化」するつもりではない。

言いたい事は
「国際」という熟語には、気をつけた方が良い、という事だ。

誰でも国を持っているわけでは無いのだ。

「平和」は、「国際的均衡」が保たれなければ実現できないが
その均衡を保つべき「国」自体が
当然の土台では、無い。
民族=国でも無いし、その民族の定義ですら難しい。

ごくごく単純に言ってしまえば
固まって生きる運命共同体の一族どうしが
生存のために、限られた土地を争うのが戦争だ。
その族たちが、
戦争の繰り返しによる消耗と無意味さに気づき
共存しようとするのが、国際外交だ。

けれども
この外交の単位は、あくまでも「国」「準国家」なのだ。

「国際人」は、外交の場に、そのまま出て行ける。

【国際(くにぎわ)族】は
まず、どの立場で、外交の場に出るか、
見極めなくてはいけなくなる。

時として、全てを「白と黒」で分ける必要が出てくる世界では
「灰色」を知り尽くしている【国際(くにぎわ)族】は
知りすぎているが故に弱い立場にも成り得る。

しかし、実は、灰色の世界を知っているのは
【国際(くにぎわ)族】だけではない。
【際(きわ)族】を生むのは国だけではないのだ。
性別も、年齢も、財力も、職業も、学力(いや学歴か?)も.....
要するに
いわゆる「差別」が生まれるところには
【際(きわ)】が、生まれるのだ。

【際(きわ)族】が、自分の知っている【際(きわ)】以外にも
共感範囲を広げる....それが、力になる。

自分の属する【際(きわ)】によせられた偏見から
他者の属する【際(きわ)】によせられた偏見を
連想し、共感する.....それが、大きな力になると信じている。

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2008年
まずは、自己の心に潜む偏見撲滅から始めます!