リストラと母の介護編~中村幸子物語~GW連載読物2( 全3回) | 2歳~6歳さんの好き嫌いが無くなり、しつけも学べる子供料理・お菓子教室【大阪心斎橋駅から6分/長堀橋駅から3分】

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お料理もお菓子も作れて☆親子で一緒にクッキング&試食も楽しい♪教室です!
子供の好き嫌いを改善する調理法や、食事マナー、しつけなども合わせて学ぶことが出来ます。

・リストラと母の介護編~中村幸子物語~GW連載読物2(全3回)

 

こんにちは、「カフェ茶の子」の中村幸子です。

 

 


大阪生まれ。生年月日は非公開。
 

現在、大阪心斎橋にある「カフェ茶の子」の店主。長い闘病生活から生まれた「お粥スープ」をベースにした「美人粥」をカフェ内で提供している。

また、2歳~6歳の為の「子供料理(お菓子)教室」をカフェ内で開催。教室とは別途、オリジナル焼菓子「納豆ビスコッティ」を製造・販売もしている。 

 


 

前回は、①難病と二人三脚編をお話ししました。
 


今回はその続きのリストラと母の介護編をお話しいたします。

 

中村幸子物語 難病と二人三脚編
 

中村幸子物語 リストラと母の介護編
 

中村幸子物語 飲食のプロになる!編  

 

 

②リストラと母の介護編

テーマは一見、暗くて厳しそうーですが、現在の活動への布石であったことを踏まえて読んでいただければ嬉しいです。
(#^.^#)

 

 

「リストラされた」といっても、気が付けば「世間ではフツーのこと」と思われるほどにリストラが増えていました。

 


私はフランス語を教える仕事は好きでしたし、(自分で言うのもナンですが)生徒さんに人気が有り慕われてもいたので、とてもやりがいを感じていたのです。

 


語学学習を通して、生徒さん達が異文化に興味や親しみを持ったり、「フランス語を話せたー!」と楽しそうにしているのを見るのがなにより嬉しかったのですが・・・、

リストラとは、「アナタは、もう必要ない」という宣告。

 


最初は、「学校」という仕事の場を失ったことに大きなショックを感じていましたが、こう思い直すと気持ちがスッキリしました。

 


「命を取られるわけでもないし、学生の頃からすればフランス語に30年余り関わることができたんだから、今が卒業の潮時かもー」

 

で、「個人レッスン」の仕事だけは続けていました。

 
 

しかし、その年の暮れに母親が脳梗塞で倒れたことで、すべて止めることに。

 


母は、倒れる前日まで元気で(兄の)クリニックに(会計の仕事を手伝いに)行っていたのです。
 

病院に駆けつけた私は、その日から介護生活を開始しました。
 

母親の一大事に仕事を止めてお世話ができるのは、(兄弟4人の中では末っ子で家庭を持たない)私だけだったから。

 

 

寝たきりになった母の姿に驚いているのは、私だけではありませんでした。

なんと私以上に母親自身が現状を理解できてなかったのでした。

 


「ここは何処? ・・・なんで病院にいるの? なんで(麻痺して)手足が動かない? トイレに行きたいから(連れていってー)」

ろれつの回らない弱弱しいことば・・・。(>_<)

 

 

どうやら倒れる直前から病院で意識が戻るまでの記憶が飛んでしまっているらしいのです。

病室の(一人部屋に空きがなくて入った6人部屋の)他の患者さん達は誰?なんでココにいるの??などなど分からないことばかり・・・のようでした。

 
 

脳梗塞で倒れたとはいえ命はとりとめたのでホッとしたのですが、

私たち親子にとって、脳梗塞の後遺症の現実はとても厳しいものでした。

 


しかし、「母親が可哀そう・・・」とか言って泣いてる場合ではなく、毎日私が笑顔で優しく母に接して介護することが一番大切なのだ!とすぐに気が付きました。

 


分かりやすく言えば母は、

 

身体的にはゼロ歳児、しかし

 

・精神的には母親のプライドを傷つけないように注意しなければならない!

 

なのです。

 


母親が倒れたのが年末だったこともあり、彼女のリハビリ治療は1週間近く遅れることになりました。

 

 

その1週間のあいだ私が見たことは、「完全看護」の病院でもお年寄りが家族からほったらかしにされたら病状が良くなるどころか痴呆が進む・・・という現実でした。

 
 

「身体のケア」以上に、「心のケア」をできる人が絶対に必要!いまの母には私しかいない!!(*^_^*


幸い病院が家から歩いて5分だったので、私は朝晩病院に行って朝ごはんと晩御飯の介助をしました。

右半身不随なので、左手だけでは一人でちゃんとごはんを食べられなかったからなんです。

 

 

病院で私が他にしていたことは、
 

 ・歯磨きを手伝ったり
 

・オムツを取り替えたり
 

・下着やバスタオルの(洗濯)替えをしたり
 

・病院内のリハビリ訓練室への送り迎えをしたり
 

・車椅子に母をのせて病院内を散歩したり
 

・1階ホールのテレビでニュースを一緒に見たり、新聞を読んだり
 

・字を書く練習をして、右手のマヒを改善していったり
 

一緒に世間話をしたり、いま流行ってることを話したり

 

 

などなど。


ヘルパーさんたちが、大きな声でゆっくりと病人に話しかけながら仕事をしている様子を見て、それをお手本にしました。

 


母がマヒで発声が出来なくなっていたとはいえ、私は今まで通りに母親に話しかけ、オシャベリをしていました。

 

 

時々母親が私を見つめながらフフフっと笑っていることが・・・、
「なんで?なんか面白いこと言った??」

 

「学校から帰って来たら毎日、今日はこんなんあったー!って話してた時みたい。毎日、幸ちゃんの報告を聴くのが楽しみやったゎー!」

とニコニコして言いました。


 

私が入院中の母にオシャベリしていたのは単なるストレス発散ではなく、ちゃんと話題を選んで明るいお話しだけをしていました。


 

それは、彼女が言葉を忘れないように、社会復帰した時にフツーのしゃべりを取り戻せるように・・・という理由からでした。

 

母はその時84歳。

 

84歳の人生を生きてきた女性がゼロ歳児みたいにしか動けないことに忸怩たる思いをしているのは、娘の私よりもほかならぬ本人自身でした。

 

 

身の回りの世話を娘にしてもらっているのが申し訳なさそうな顔つきの母に、私は毎日明るく言い続けました。

「子供が母親のお世話をするのは当たり前でしょ、順番じゅんばーん!」(*^-^*)

 
 

2ケ月が過ぎ、辛いリハビリ訓練を頑張ったこともあり、もうすぐ一人で杖を持って歩けるようになるところまできました。

 


それに備えて、リハビリ用の靴を新調したり、身長に合った杖を注文したり・・・。(*^_^*

 

 

クリニックに(倒れる前日まで行っていた)また手伝いに来てほしい」という次兄の言葉を伝えると、母親の目にチカラが入ったのをハッキリと覚えています。

 
 

いくつになっても自分(の存在)が求められている、ということが生きる支えになるのですねー。

 

「あと2週間くらいで退院できたら、まずはクリニックに行く前に家でゆっくりしましょ。

それから海遊館に遊びに行って、美味しいものを食べて、そばのホテルに泊まって、大阪港を沈む夕日を見て・・・」

 

と添乗員よろしく話す私を、ニコニコして見つめていた母。

 
 

3月末になって、病院内で桜のお花見を他の患者さんたちと楽しんだ幸せな週末を過ごせました。

もうすぐ晴れて退院---!\(^o^)


 

ところが、数日後に容体が急変したのです。


顔色が悪く、食事を受け付けず、涙を流してしんどそう・・・。

「一体どうなったんですか?もうすぐ、退院というのにー!?」

担当の先生は静かにこうお答えになりました。

「高齢になると、容態が急変することがあるんです」


母はそれから数日後に亡くなりました。

 

 

母親を亡くすというのは、子供にとっていくつになっても最大の不幸のような気がします。

 

とりわけ母と私は一卵性双生児みたいに仲良しだったので、なおさらこたえました。(>_<)

 
 

「生きてられるだけで丸儲け」とは思っていましたが、

100日余りの介護生活の疲れに加えて母親が亡くなったことのショックが加わり、またまた私の病状が悪化。


しばらくは、「これから何をして生きていったらいいのか?」に答えを見いだせずにいました。

 


その後、母の写真や遺品整理をしているうちに、これからの「私の使命はコレだー!」を感じることに出会ったのです。(*^_^*

 


つづきは、飲食のプロになる編~中村幸子物語~GW連載読物3(最終回)

 

 

中村幸子でした。



最後までお読みいただきまして、ありがとうございました