・リストラと母の介護編~中村幸子物語~GW連載読物2(全3回)
こんにちは、「カフェ茶の子」の中村幸子です。
大阪生まれ。生年月日は非公開。
現在、大阪心斎橋にある「カフェ茶の子」の店主。
また、2歳~6歳の為の「子供料理(お菓子)教室」
今回はその続きの②リストラと母の介護編をお話しいたします。
中村幸子物語 ①難病と二人三脚編
中村幸子物語 ②リストラと母の介護編
中村幸子物語 ③飲食のプロになる!編
②リストラと母の介護編
テーマは一見、暗くて厳しそうーですが、
(#^.^#)
「リストラされた」といっても、気が付けば「
私はフランス語を教える仕事は好きでしたし、(
語学学習を通して、
リストラとは、「アナタは、もう必要ない」という宣告。
最初は、「学校」
「命を取られるわけでもないし、
で、「個人レッスン」の仕事だけは続けていました。
しかし、その年の暮れに母親が脳梗塞で倒れたことで、
母は、倒れる前日まで元気で(兄の)クリニックに(
病院に駆けつけた私は、その日から介護生活を開始しました。
母親の一大事に仕事を止めてお世話ができるのは、(
寝たきりになった母の姿に驚いているのは、
なんと私以上に母親自身が現状を理解できてなかったのでした。
「ここは何処? ・・・なんで病院にいるの? なんで(麻痺して)手足が動かない? トイレに行きたいから(連れていってー)」
ろれつの回らない弱弱しいことば・・・。(>_<)
どうやら倒れる直前から病院で意識が戻るまでの記憶が飛んでしま
病室の(一人部屋に空きがなくて入った6人部屋の)
脳梗塞で倒れたとはいえ命はとりとめたのでホッとしたのですが、
しかし、「母親が可哀そう・・・」
分かりやすく言えば母は、
・身体的にはゼロ歳児、
・精神的には母親のプライドを傷つけないように注意しなけれ
なのです。
母親が倒れたのが年末だったこともあり、
その1週間のあいだ私が見たことは、「完全看護」
「身体のケア」以上に、「心のケア」をできる人が絶対に必要!
幸い病院が家から歩いて5分だったので、
右半身不随なので、
病院で私が他にしていたことは、
・オムツを取り替えたり
・下着やバスタオルの(洗濯)替えをしたり
・病院内のリハビリ訓練室への送り迎えをしたり
・車椅子に母をのせて病院内を散歩したり
・1階ホールのテレビでニュースを一緒に見たり、新聞を読んだり
・字を書く練習をして、右手のマヒを改善していったり
・一緒に世間話をしたり、いま流行ってることを話したり
などなど。
ヘルパーさんたちが、
母がマヒで発声が出来なくなっていたとはいえ、私は今まで通りに母親に話しかけ、オシャベリをしていました。
時々母親が私を見つめながらフフフっと笑っていることが・・・、
「なんで?なんか面白いこと言った??」
「学校から帰って来たら毎日、今日はこんなんあったー!
私が入院中の母にオシャベリしていたのは単なるストレス発散ではなく、
それは、彼女が言葉を忘れないように、
母はその時84歳。
84歳の人生を生きてきた女性がゼロ歳児みたいにしか動けないこ
身の回りの世話を娘にしてもらっているのが申し訳なさそうな顔つ
「子供が母親のお世話をするのは当たり前でしょ、
2ケ月が過ぎ、辛いリハビリ訓練を頑張ったこともあり、
それに備えて、リハビリ用の靴を新調したり、
「クリニックに(倒れる前日まで行っていた)
いくつになっても自分(の存在)が求められている、
「あと2週間くらいで退院できたら、
それから海遊館に遊びに行って、美味しいものを食べて、
と添乗員よろしく話す私を、ニコニコして見つめていた母。
3月末になって、
もうすぐ晴れて退院---!\(^o^)/
ところが、数日後に容体が急変したのです。
顔色が悪く、食事を受け付けず、涙を流してしんどそう・・・。
「一体どうなったんですか?もうすぐ、退院というのにー!?」
担当の先生は静かにこうお答えになりました。
「高齢になると、容態が急変することがあるんです」
母はそれから数日後に亡くなりました。
母親を亡くすというのは、
とりわけ母と私は一卵性双生児みたいに仲良しだったので、
「生きてられるだけで丸儲け」とは思っていましたが、
しばらくは、「これから何をして生きていったらいいのか?」
その後、母の写真や遺品整理をしているうちに、これからの「
つづきは、飲食のプロになる編~中村幸子物語~GW連載読物3(最終回)
中村幸子でした。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。