前回は→その2

 

参照サイト新世界の裏様→こちら

2000年(平成12年)に発行された二千円

実はこの紙幣は、当時の小渕首相が、2000年7月21日~23日に行われた沖縄サミットを記念して発行した紙幣です。

沖縄サミットとは、2000年7月に九州、沖縄を会場に開催された先進国首脳会談の事です。

二千円札は現行の紙幣で唯一、表に人物が描かれてない紙幣ですが、その代わりに沖縄の「守礼門」が描かれています。ではなぜ人物の代わりに守礼門を描いたのでしょうか?

【守礼門をこのサイトではこう分析しています】

1853年に浦賀に入港し江戸幕府に開国を求めた人物がいます。

その人物とは米海軍の軍人マシュー・ペリーです。

 

実はペリーは浦賀に辿り着く前に、沖縄(琉球)に上陸し島内の測量を行いました。

いったい何のために測量を行ったのか?それは沖縄を占領するためです。

世界地図を見ると分かりますが沖縄はアジアのほぼ中心に位置しています。沖縄を領土にしてしまえば日本は勿論のこと、中国、朝鮮半島、インド、さらにはロシアにも睨みをきかせることができます。米国は、沖縄をアジアの強力な軍事拠点にしたかったというわけです

かつて米国は日本との戦争の結果、沖縄を手に入れました。

その後のベトナム戦争では、早速、沖縄を拠点にして多くの爆撃機を飛ばしました。

冷戦中も沖縄に基地があることが有利となりソ連の動きを封じたのです。現在、建前としては日本に返還していますが、100年もかけて手に入れた地を米国が本気で手放す気などないのです。そう考えると二千円札に描かれた守礼門は、沖縄が米国のコントロール下にある事を示しいてる証でもあるのです。

~以上~

 

ところがねー守礼門を掘り下げるともっと面白いんです(*´∀`*)

守礼門は、沖縄県那覇市首里にある。

第二尚氏王朝の時代、中国からの冊封使が琉球に来た際には、
国王以下の高官らが守礼門まで出迎え三跪九叩頭の礼をとっていた。

「しゅれいもん」は、そこに掲げられた扁額の「守禮之邦」からきている俗称で。本来は「上の綾門(ウィーヌアイジョウ)」という。

創建年代の確定はできていないが、琉球王国第二尚氏王朝4代目の尚清王(在位1527~1555)の時に建てられている事は分かっている。

後に「首里」の扁額が掲げられるようになり、その後6代尚永王(在位1573~1588)の時に守禮之邦の扁額が作られた。

それからは、中国から冊封使が来ている間は「守禮之邦」の扁額を掲げ、それ以外の期間は「首里」の扁額を掲げるということとなった。

しかし9代尚質王(在位1648~1668)の時には
「守禮之邦」の扁額を常掲するようになり、これが現在に至っている。

扁額の「守禮之邦」は、右から読んで「守禮之邦(しゅれいのくに)」が正しい読み方です。
守禮之邦」の意味は、「琉球は礼を重んずる国である」という意味だそうです。

この扁額は、中国から冊封使が来た時だけ掲げられていたものですが
これで、「当時の琉球王国の立場がどういうものだったのか?」が良く分かります。

つまり、、、(日本人は少し憤慨するかもしれませんが・・・)
「守禮之邦の扁額は、元々、琉球王国が中国皇帝に忠誠を誓うしるし」だった訳です。

~以上~

※四文字は「邦之禮守」、右から「しゅれいのくに」と読みます。
  意味は琉球王国が中国皇帝に忠誠を誓うと言う「しるし」なのです。

  昔、アジアの国々は中国(明国や清国)の皇帝を中心にした同盟を結んで
  居ました、これを冊封体制(さっぽう)と言いました。

球国は、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、
薩摩藩による実質的な支配下に入ってはいますが、元々は独立国です。

しかし、その琉球国の独立を保つためには、どうしても大国の庇護と承認が必要で、それが、大国中国による東アジアの秩序だった訳ですね。

いわゆる中国による冊封体制の中に、琉球王国は組み込まれて居た訳です

 

冊封体制とは?

中国王朝と、その周辺の国々とのあいだの国際親善関係をあらわすことば。冊封体制自体は、もともと中国王朝の国内秩序であり、皇帝を頂点として、それと貴族や官僚とのあいだに形成される君臣関係の秩序である。それが周辺諸国とのあいだに形成され国内的秩序の外延部分として出現した。冊封体制は古代からあるが、明代以後もっとも明瞭にあらわれている。明の太祖洪武帝が即位すると、周辺諸国に招諭を出し、これによって臣として朝貢する国は、朝鮮・日本・琉球・ジャワ・シャム・三仏斉(パレンバン)・スマトラ・マラッカ・安南など10余国にのぼった。これらの国々は、明とのあいだに、冊封、進貢の関係をもち、中国王朝はこれらの国々が臣節をつくすことを期待し、臣節にそむくときは出師討伐がおこなわれることもあった。またこれらの国々が外国に侵略されるときは、宗主権を主張して抗議し、ときには軍隊を出動させて戦争に発展することもあった。 琉球は冊封を受けて進貢と貿易(進貢貿易)を許され、頒暦、留学生(官生)派遣などの文化上の利をうけた。けれども内政上に干渉をうけたことはなく、たんに文化的・経済的・儀礼的な関係にとどまった。琉球が薩摩に侵寇(薩摩侵入、1609)されたのちは、傍観したに過ぎず、明治の廃藩置県にも、たんに宗主権の主張にとどまった。このように中国王朝と体制内の国々との関係は一様でなく、それぞれ異なっていた。冊封体制は、要するに前近代的な中国王朝と周辺諸国家との国際親善関係である。したがって近代的な国家観、領土観にたつ近代国家の出現と進出によって、その朝貢国の多くは植民地化され、冊封体制は崩壊した

-沖縄大百科事典から引用ー

 

不思議な事に、ここ十数年、二千円札だけ、急速に日本国内で見られなくなりました。それと同時に、中国による尖閣諸島周辺のイザコザも政治的な大問題になりました。

で・・・・結局どうしてなのか?という話で結局終わり読み解けない様になっていますが、たかちほなら答えが出ますね。
 
つまりズバリアメリカ様がどっかに本当はまだ存在しているW中国皇帝とタッグを組み日本占領するという意味じゃないでしょうかねー違いますか?
もし本当ならイエス!って言わないといけませんよ。だって問答ですからねー自分で言ったんでしょ、本当なら扉を開くってね。
 
次回は( 'ω'o[ 二千円札の裏側です  ]o
 
 
続きは→その4