おうちで勉強して受験!子どもが勉強を好きになる方法 -2ページ目

宮古島元気旅行

先生に「ダイビングさせてあげたい」って言ってもらったのがうれしくて、

お見舞いの連絡をくれた友達にLINEして、

嬉しかったのを話していると、

 

「それでいつ宮古に行くの?私も行きたい」

と言い出した。

「行くなら早い方がいいと思うんだよね。

まだ11

月なったばかりだし、今ならまだギリギリ、潜れるんじゃない?」

それを聞いて、私もすぐネットで調べて

宮古島の体験ダイビングをやっている業者に電話をしてみた。

今、まだ水はそんなに冷たくないらしい。潜れますよとのこと。

初心者でも潜れる範囲の深さと場所を選んでやってくれるので、

初心者でも楽しめるとのこと。

 

私は自分の病気のことも正直に話して相談してみた。

ドクターの診断書があればお受けできますと言ってくれた。

 

「本当にダイビングできちゃうかもしれない!」

 

そう思っていると、友人から連絡が。

 

「仕事の調整ついたから、ホテルも、飛行機も予約とれそうだよ!

主人が、招待してくれるって言ってるから、
長女さんと二人で一泊ホテルに一緒に泊まろう!

めちゃくちゃ素敵なホテルらしいからさ

 

実は宮古島のリゾートホテルに泊まってみたいというのも

私のひそかな夢だった。

実家があるから、普段なら宮古でホテルに泊まるのなんてほとんど無理だ。

せっかく宮古にいるのに、おじいやおばあにさみしい思いはさせたくない。

でもこの状況で、友人の招待で一泊だけなら、大丈夫な気がした。

私のひそかな夢が二つも叶うチャンス!!

「細かいことは主人が手配してるから、
この旅行のLINEグループ作ったらしいからそっちに入って」

 

送られてきた招待状のLINEグループ名は

 

「宮古島元気旅行」

 

私と長女と私の友人とそのご主人の4名で
宮古島で元気をチャージするための旅行。

なんかわくわくしてきた。

 

調べてみると宿泊予定の「イラフSUI」というホテルは

宮古で一番高級といわれている本当にステキなホテル。

私はすぐに宮古の両親に電話した。

「もうすぐ退院できる予定なんですけど、
ちょうど友人が宮古島に行くと連絡があって、
私も元気なうちに宮古に行きたいと思っていたので、
11/9~11/13、長女と二人で宮古に行ってもいいですか?」

 

両親は快諾してくれた。

 

 

 

やりたいこと

余命宣告されてから、まず考えたのは、
人生でやり残したことはあるだろうか?ということ。

 

今まで結構やりたいことは何でも挑戦してきたし、

やるからには、全力で楽しんできた。

 

だから、悔いはないんだよね。

 

4人の子供たちはまだ自立できていない子もいるけど、

私がず~っとそばにいるわけにはいかないし、

それがその子にとって良いとも思わない。

逆に私が先に逝くことで、自立できるかもしれない。

 

海外旅行は行きたいところいっぱいあるなぁ~
ヨーロッパ行ってみたかった。

ルーブル美術館を娘とゆっくり見て回るのが夢だった。
でも海外はねぇ~
コロナでしばらくは難しそうだよね。

そんなことをリハビリをしながら話していたら、
リハビリのお姉さんが、
「ダイビングは?したことある?」と、
宮古島の青の洞窟で潜った写真を見せてくれた。

 

「わ~いいなぁ~!!私30年宮古の嫁してきたけど、

一度も潜ったことないんだよね。
生きてるうちに一度は潜ってみたいなぁ~」

 

リハビリから部屋に戻ってからも、考え続けていた。

 

大好きなお芝居も、音楽も、ライブは今厳しいよね。
あ....リコーダーのアンサンブル。

死ぬまでにもう一度聞きたいな。
ダメもとで、だれか来れないか聞いてみようかな。

 

すぐ、末娘の入っているリコーダーアンサンブルの

LINEグループに「沖縄来れる人~!」と募集した。

 

数分後、「行けます!」と一人の子から返信があった。

間髪入れず、もう一人から、
「私も行きたいけど、その日はダメなんです。

次の週じゃダメですか?」とコメントが。

 

このリコーダーチームは
娘が幼稚園の時からの仲間と作っているチームで、
私が沖縄に来るまで3年間、

一緒に全国大会目指して頑張っていたチーム。
宮城の被災地訪問に連れて行ったり、

病院や老人ホームでの演奏を手配したり、
娘が沖縄で一人になったのを心配して

沖縄まで演奏に来てくれたこともある。

メンバーとそのお母さんたちとは、家族みたいなものだ。

これは、ちゃんと事情を話しておいた方がいいな....

私はリーダーのお母さんに電話して病気のことを話した。

 

翌日日程を変えてくれと言っていた子から電話が来た。

 

「12/18~19日沖縄に行くチケット取りました。」

「え?もし入院していたらあえないかもよ」

「その時は、病院の駐車場ででも演奏します!
どうしても、生の演奏聞いてほしい。
私12/15日まで看護実習でその前は沖縄に行くなんで絶対ダメって。
でも先生に交渉して実習が終わってからならって許可もらったんで。
そしたら、みんなも日程合わせてくれました。」


「じゃあ、私はその日、ちゃんと元気で家にいられるように全力尽くすね」

 

その瞬間から、私の一番やりたいことは
「リコーダーコンサート」になった。


 

 


 

ダイビングさせてあげたいと思って

すい臓がんのステージⅣで、余命半年から9か月。

こう告知されてから、私はずっと悩んでいた。

 

先生からは転移があるので手術はできないこと、

抗がん剤を使っての治療になるが、
完治することはないということ。

少しでも進行を抑えたり、
痛みを抑えたりするための治療しかないと言われた。

看護師をしていた友人や従妹にも相談した。
ネットでもいろんな体験談を読んだ。


友人や従妹は抗がん剤治療に否定的だった。
抗がん剤治療をすると体力がみるみる落ちていくのを
たくさん見てきたそうだ。

いま私に一番大切なのは、
QOL(クオリティ オブ ライフ)を少しでも上げること。

いかに最後まで快適に生活するかってことじゃないか。

少しでも元気に、私らしくいられる時間を長く確保すること。
そのためには、痛みを我慢しないで、
自分がどうしたいかをきちんと伝えることが大切。
抗がん剤を使うならそれで体力がかなり落ちるリスクも
しっかり考えること。
そうアドバイスしてくれた。

私は、真剣に自分は残された時間何をしたいのか
どう過ごしたいのか考えた。

そんな時、リコーダーのアンサンブルチームの子から

沖縄行きのチケットを買いましたという連絡が入った。

 

12/18日に元気でコンサートに参加する。
それが一番の目標になった。

しばらくすると関東にいる子供たちから、

11月に日程を合わせて会いに来ると連絡が入った。
 

「この日も元気で家にいないと!」

 

私はそれらの日程を紙に書いた。

 

次の日の朝の回診の時に、主治医の先生に渡すことにした。

 

「私は、この日程に元気で家にいたいです。
もし、その前に抗がん剤治療をするとかなり体力が落ちてしまうなら、
抗がん剤治療はそのあとにしたいです。」

 

そう言うつもりだった。

でも、心の中には、まだ不安もあって、

抗がん剤をしないということは、癌に対しては何の治療もしない

という選択になるけど、それでいいのか?
もっと早く治療を始めていればと後悔することになるんじゃないか?
という気持ちと
抗がん剤を始めて弱って動けなくなってしまうことへの恐怖が
戦っている感じだった。

 

書いたメモを渡そうとすると、
いつも後ろの方にいるチェックのシャツを着た先生が言った。

 

「あなたに、ダイビングさせてあげたいな~と思って」

 

「へ!?」

 

「一度ダイビングしてみたいって言ってると聞いたんだけど?」

 

「はい。確かに。

一度でいいから宮古の海に潜ってみたいなぁ~って」

 

「その願いかなえてあげたいねって先生方と話してるんだよ」

 

「ダイビング...できるんですか?」

 

「今ならまだ体力もあるしできるんじゃないかな。

ここに書かれている日程もやりたいことあるんだよね。」

 

「はい。」

 

「だったら、抗がん剤始めるとしたら年明けからかな?
 

ちゃんと言っておくけど、医師としては、

少しでも早く抗がん剤を始めることを勧めるよ。

でも、あなたみたいに自分のやりたいことが決まっていて、
強い意志を持っている方には、
患者さんの希望を叶える助けをしたいと思うんだよ。

 

それに、もし自分が患者の立場になったとしても、

俺はきっと、こっちを選ぶと思うからね」

 

そういって、その先生は私の書いたメモを指さして笑った。

 

「余命って、抗がん剤のデータから計算してますよね。
抗がん剤使わなかったら短くなったりするんですか?」

 

「それはわからない」

 

「抗がん剤が効くかどうかも、どんな副作用が出るかも、

実際に使ってみないとわからない。」

 

先生にはっきり言われて、気持ちがすっきりした。

 

気が付くと、先生方はもうほかの病室へ行って、

私はベットに座って泣いていた。

 

私の希望を応援すると言ってくれた先生の言葉が

とてもうれしかった。

 

「最後の最後まで、私らしく生きよう!」

そう決意していた。