一昨年8月からブログを書き始めて、おそらくは最も期間が空いてしまいました。

 まあ、当初はともかく、ここ1年半ほどは、手が空いたときに更新するというスタンスだったので、これだけ空いたというのは、ある程度、仕事が回っていたとということで、比較的良い状況だったのですが。


 さて、今回このタイトルにしたのは、何もミシェルブラン主演のフランス映画の評論をしたかったのではありません。

 知人で、あるお笑い芸人に似ているとして、ニックネームも、その芸人の通称になっている人がいます。実際問題、似ていることは否定しませんw。それに、御本人も満更ではないようですし、対象の芸人と年もそんな違わず、イケメンかどうかは別としても少なくとも愛嬌のある顔つきで、太っていたり不○工なわけでもないので、悪くはないことのようです。


 しかし、自分は、こういう風に誰かに似ているということを指摘するのは慎重になった方がよいと思っています。

 というのも、そういったことで、大学で入った部活において今でもイヤな気分になる経験をしているからです。

 当時自分の年齢は二十歳にも行ってません。にもかかわらず、当時からしたら、それこそ年齢が倍以上行っている、ある漫画家に似ていると指摘され、ずっとその方の名前をあだ名で呼ばれていました。

 自分も当初は、相手が親しみを込めて言っていると信じてましたし、その程度のことはシャレとして受け止めなければ大人気ないと思い、表面的に受け入れてましたが、今考えると、そういう指摘をされたときに、なぜ怒って、その部活を出て行かなかったのか後悔しています。


 もっとも、そう呼んでいた連中に悪気はなかったとは思いますが、イヤだったのは、いつの間にかキャラクターが独り歩きして、自分は全くその方とは異なるのに、そのキャラクターであることを実質的に強要されたことでした。

 その漫画家は悪人相ではないですが、腹が出ており、見てくれもどちらかと言えば不潔な印象の方でした。

 そのため、自分は決して太ってはいなかったのに太っていると決めつけられ、常に(容姿や能力において)ネガティブな印象を受けるキャラクターであることを強要されました。


 根本的に頭に来るのは、自分が本当に太っていたり不細工だったのであれば、それはそれで諦めもついたかも知れません。

 しかし、173cmの67か68kgで、痩せているとまでは行かずとも決して太っているというような体格ではありませんでした。むしろ、皮下脂肪は標準以下で、筋肉質なぐらいでした。

 それに、顔だって今よりは引き締まっていなかったことは認めるものの、少なくとも主観的には普通よりはマシだったと断言でき、決してその漫画家とは似つかないことは明らかだと思っています。

 さらに言えば、その部活は小柄で貧弱な体格の連中が多く、自分が一番背が高いぐらいでした。そういう状態を考えたら、部活内で一番格好いいぐらいでした。


 少し長くなってしまいましたが、似ているという対象が良い印象の方なら問題ないでしょうが、悪い印象であると、相手を差別してしまうことにつながりかねず、結果として取り返しのつかない傷を付けてしまいかねないということです。


 自分は、さすがに怨んじゃいませんが、ハッキリ言って、このようなあだ名を付けた連中とは今でも関わりたくないです。法的にはともかく、心情的には全財産をお詫びとして渡してもらっても慰謝料にもならないと思ってますし、死んで詫びられても忘れることはないでしょう。


 残念ながら、こういうことによる差別は社会でも珍しくないと感じております。

 社会人になってからも、特に団塊以上の世代のオヤジ共によく、非常にガッチリしており何事にも動じないような見てくれをしているなどと言われました。

 これ、一見ほめ言葉のように聞こえますが、自分は特別なスポーツをしていたわけではなく、そんなに精悍ではありません。にもかかわらず、そう見えるということは、見てくれで差別をしている証左であると思います。

 また、こういうことをいうジ○イに限って、少なくともそいつよりは自分の方が格好いいと感じるヤツで、余計に不当に感じることが多かったです。


 それから、よくこういう話をすると、それに腹を立ててる以上、同じ土俵で戦っているにすぎないだとか、自分が寛容にならないと相手も寛容にならないなどと言われることがあります。

 しかし、こちら側はそれによって深い傷を付けられているのに、相手は何にも制裁を受けずにのうのうとしていて、同じ土俵とか何とかという次元で考えるのは、事態を極めて矮小化していると言わざるを得ません。

 それに、寛容云々という話ですが、こうやって差別された立場にいると、自分がその何百分の一、何千分の一、何万分の一でも相手に不愉快な印象を与えると、どこまでも粘着して来られました。にもかかわらず寛容になれというのは、天は人の上に人を作らないけれども、人の下に自分を作ったということと同義になるのではないでしょうか?