長文です。ごめんなさい。
今日は地域のバレー大会だった。
ほんと小さい小さい地域のバレー大会。
でもこのバレー大会は、ここの人たちの名物で帰省してきた家族とともに地区に分かれてする。
今回参加が初めて。
結論からいうと、とっても楽しいと思った。
地域の人が一丸となって、ワイワイいいながら試合をする。
顔見知りの人の新たな一面なんかも知れてなお楽しい。
あーだね、こーだね、ごめんねー、よかったねー、みんなで掛け合って。
もちろん、そこにはツレはいない。
楽しーーーーーを満喫した後に、思ったこと。
ツレも参加できたらいいのに。
参加できないツレに胸がぎゅーーーーーっと傷んだ。
頭の悪い、不出来な私はまたわけがわからなくなった。
どうして参加できないの?黙ってでも参加してたら楽しめるんじゃない?
いやいやいや、いろんな人に声をかけられる。
その度に吃音が邪魔をして、言いたい言葉がでない。
人が多いから、リズムが取りにくくなって余計しゃべりにくいだろうし。
結局飲み会と一緒。
ある方が教えてくれた。
吃音があると、喋っている集団の中で、たった一人檻の中に入っているようだということ。
わかりますか?
つまり、目の前でスラスラ喋れることを自慢されるんです。吃音を持つ人は。
そして、あーそだね、こーだね、だったよねって、相づちですら自分でコントロールができたりできなかったり、言いたいこを話そうとタイミングをとっている間に話しがかわり言いたいことも言えず。
結局、自分だけのなかで仲間外れになっているんです。
周りには見えない、吃音を持つ人だけが見える檻。
理解してもらいたくて似たようなことを何度も書いてしまうのですが、、
ある偏った見方をすれば、私たち吃音がない人たちは、ある意味、吃音のある人たちを知らずに檻の中に閉じ込めてしまって「話すこと」を見せびらかしてしまっているんです。
(非当事者は、この話なかなか理解しにくいかもしれない。分かりにくかったらごめんなさい。もしかすると、以前の私のように大袈裟!!って思うかも。それはあんたのツレだけだろって思っているかもしれない。でも、吃音のことを知ろうとなんどもなんども考えていると、ふとわかるときが来ると思うんです。)
この話を聞いた時、私はなんてことをしていたんだ!!って思った。
なんて恐ろしいことを強いていたんだって。
自分のなかでスーーーッとツレの苦しみが理解できたような気がした。まだまだわかってもいないことも多いのだけど。
参加して吃音の苦しさに苛まれるより、人と付き合わないことを選んだ方が心が平穏。
だからツレは参加しなかった。
さてはて、上ではツラツラと吃音のことを分かったようにかいているんだけど。
ツレの奥さんである私の本当の心の中はどうなんでしょうか。。
私は欲深い人間。
ツレのことを思いやる一方で、僻んでいる。
家族で来ているところは、奥さんが子供をみて旦那さんが審判とかをして役割分担だった。
私の家は私とぼうやちゃんマンだけ。
試合が進むとこどものお友達の家は旦那さんを残して夜が遅いと帰ってしまい、帰省してきたこどもが残っていたものの知らないこどもとは遊べないぼうやちゃんマンはひとりぼっち。ボールと一緒に転がっていた。
私は駆け寄りたいけど、点数番をしていたからいけなかった。
あ、、ツレがいたらなって思った。
ずっと、何年も住んでいる場所ならいいけど。
「いなくなる人」扱いの転勤族の私たちは、こういった狭い地域では肩身が本当に狭い。
家族2人ってどれだけさみしいんだろう。
ツレがいたらどれだけ心強いか。
せめて兄弟がいたら、ぼうやちゃんマンはどれだけ寂しい思いをしなくてすむんだろうか。
私がこどもを守らなければ。
吃音を持つ人の伴侶はきっと強くなくてはならないと思う。
周りには決して理解されない、付き合いの悪い伴侶をフォローする必要があるんだから。
(でも、きっとそんなことはこんな田舎だから思うのかも。都会だったらライトな関係だからここまでは感じないのかもしれない。それに転勤族じゃなければ、もっと親しい人ができてここまで気にならないのかも。ネガティブなことを書いてます。本当の心の中を書いています。お見苦しい記事で申し訳ないです。)
帰ってきたあと、ツレは悪くないのはわかっているけど、ワガママな私はツレにあたって冷たい。
ツレがどん底に落ちた時を思ったら今はどれだけ幸せか。
人間ってどんどんよく深くなる。
もっとほしい。これがほしい。あれがほしい。
本当は、どれだけ感謝してもしきれない。
支えてくださった人たちに感謝しないといけない。
今こうやって、ご飯が食べられることに。
皆さんにいいことがたくさん舞い降りますように