皆さんこんばんは。ブログ書くの大変遅くなって本当に遅くなって申し訳ありません。それでは書きます。


平松さんと別れるに至った経緯は前回の「さらば、平松可奈子1」で書きましたが、今回はそれを受けて僕の気持ちを整理して平松さんとは決別するので、よろしかったら最後までお読みください。


まず、今回、平松さんと別れるに至りましたが、それ以前に別れることができたかもしれないチャンスが二回ありました。


一回目は、2009年4月頃の話です。僕は2008年10月に平松さんのファンを始めた所謂大声古参なんですが、その頃の僕は当時のブログの記事を読んでいただけたら分かるかと思いますが、とにかく熱狂的でした。公演は当たったら全部行ってましたし、まあ、当時は倍率もとにかく低かった殆ど行ってましたが。あとは地元のテレビ局祭りやファッションテナントのイベントなど、とにかくあるイベントイベント欠かさず行ってましたね。


ただ、それだけ熱狂的なファンだったら、微笑ましいで済みますが、当時の僕はガチ恋で、本気で付き合って彼氏になりたいと思ってました。まあ、今の老けたおじさんの風貌を見たらそんなこと考えてたのか?と、笑われてしまうかもしれませんが、当時の僕はファッションも髪型も洗練されていて、自分で言うのもなんですが、所謂イケメンでした。まあ、平松さんも後年デビュー当時サンシャインサカエにあったSKEフレームで撮ったプリクラの僕を見て、今からぜんぜん似ても似つかないイケイケのふくちゃん(笑)と言ってたので、そんなイケメンの僕に熱狂的に応援されてて悪い気持ちはしなかったと思います。


まあ、それなので、当時の僕は幸いすぐに認知されたので、それから良くなってから如何にプライベートな関係に持ち込めるかを考えていました。ただ、最初に出会った大声ダイヤモンドの握手会は一枚一ループで1分以上話せる神イベントだったので、それゆえすぐに認知されたのですが、それからは、翌年の3月の10年桜の握手会まで握手会はなく、イベントなどあっても数秒の顔を合わせるくらいの接触しかなく、僕は焦っていました。10年桜の握手会も数秒くらいにレギュレーションが改悪されてしまいましたし。


そんな中、2009年の4月頃、いつものように2ちゃんねるを見ていたら、衝撃の書き込みを見つけてしまいました。それは、平松さんがヲタのか●ぴという奴と繋がっていること。まあ、今も平松界隈は狭いコミュニティーですが、当時はそれに輪をかけたくらい過疎ってました。実際、2008年の11月にあった平松さんの生誕祭でもテーブルの上に置かれたプレゼントはせいぜい3、4つと寂しいものでしたし。まあ、ただ、この書き込みを見て愕然としました。当のか●ぴというヲタは僕も話したことはなかったですが知ってましたし、というか繰り返しですが、とにかく狭い社会なので、そのヲタはまあまあイケメンだったので、あながち嘘でもないな、と思ってしまいました。


そうすると、僕がそのあとどういう行動を取ったかというと、何と、ファンを辞めてしまったんですね。なんか当時の僕はそういう噂を耳にすると、自分が大人しく品行方正なファンをやってて馬鹿らしくなってきたんですね。ただ、正直、真実を知りたくて、いっそのこと当時平松さんが通っていた中村高校の校門の前で出待ちをして、直接平松さんに真意を問いただしてやろうか?とも思いました。ただ、そこまでやるのも馬鹿らしくなってきて、平松さんには何の落ち度もなかったと思いますが、ファンは、というか、今回の件とは違って、平松さんのことを嫌いになったわけではないので、現場を去るという選択を取りました。まあ、ただ、実際は平松さんがそのヲタと一回、もしくは数回プライベートで会っただけなのか、それとも恋愛関係になったのか、いやいや、あくまで噂で何にもなかったのか、今となれば真相は藪のなかですが。まあ、当時は流石に書けなかったので、今回初めて書きますが。


まあ、これが別れられたかもしれないチャンスの一回目ですね。


それで、僕は平松さんのデビュー当時は名古屋に住んでいたんですが、それから母がくも膜下出血という重い病気になり、母の介護が必要になったため、仕事も転職し実家のある東京に戻ることにしました。ただ、それだけで済めばまだましなんですが、僕も詳しい経緯は長くなるので書きませんが、統合失調症という重い睡眠障害や、強迫性障害の精神病を患い、仕事も上手くいかなくなり、本当に苦しい日々でした。まあ、ただそれから薬漬けの日々で多くの副作用に苦しめられ、それから10数年経ちますが、今も全く良くなることはありませんが。


そんな苦しい日々が続いていて、平松さんのブログは一ヶ月、もしくは数ヶ月に一回くらいは結局忘れられなくて、たまにみていたんですが、「1!2!3!4!ヨロシク!」で、平松さんは念願の選抜入りをして、僕も密かにうれしいな、という気持ちになりました。


ただ、この選抜に入った、ということが僕にとっても契機になったんですが、当時選抜に入るとアメブロを書ける、という特権があったのです。それがどういうことかというと、アメブロの記事にはコメント欄があって、平松さんはファン思いというか、毎日毎日質問に返事を書くというファンサービスをしていたのです。そこで、僕は数週間悩んだ挙げ句、ふくチャンという名前を書いて、選抜入りおめでとう御座います。今でも僕のこと覚えてますか?と書いたら、次の日の返信で、昔話熱心に応援してくれていたファンの方は今でも覚えています。おかえりなさい、と書いてくれたのでした。まあ、うれしかった反面、現場に1年8ヶ月も御無沙汰していないので、本当に覚えてるのかな?とも思いましたが、その翌月の2011年1月の確かよみうりランドでの全国握手会で、平松さんに会いに行ったら、ふくチャン久し振り!と即答でしたね。それだけ長い間ブランクがあったので、本当にうれしかったですね。


まあ、こうして再び現場に通う日々が戻ってきたのですが、接触に通う度に平松さんからの認知が深まっていて、うれしかったのですが、流石にもう彼氏になるんだというガチ恋の昔の思いも消え去り、大人しく一ファンとして平松さんとは接していたのですが。ただ、再会したときに昔と雰囲気が変わったね、と言われたんですが、確かに髪型もカラーを入れていた昔とは異なり、黒髪にして服装も昔ほど頓着しないようになりました。まあ、それが影響したのか分かりませんが、昔より平松さんの僕に対する対応は特別良くなくて、それが顕著に現れるようになったのは、SKEを卒業発表してからの握手会ですね。酷いときはこっちはお金払っているのにあんまりだろ?というくらい対応が酷かったですね。


まあ、それからもその兆候は大きくは変わることなく、2013年5月に平松さんはSKEを卒業。まあ、これで平松さんのファン活動も終わりにできるな、と思いました。これが別れられたかもしれないチャンスの二回目ですね。


ただ、神様は幸か不幸か、物語の続きを用意していました。平松さんはタレントとして芸能活動を再開しました。まあ、僕はSKE卒業したらヲタ卒しよう、という気持ちもありましたが、周りの平松ヲタの影響もあり、迷いもあったんですけど現場ヲタを続けることしたのです。


しかし、大きく流れが変わることはなく、お別れから半年経って顔と名前が忘れられることはありませんでしたが、対応良くないのは変わらず、やっぱり戻ってきたのは間違っていたのかな?と自問自答する日々でした。


ただ、そうは言っても、そう簡単にヲタ卒できない事情もあったのです。またあとで書きますが、最初に2010年12月に戻ってきたときもそうでしたが、僕は統合失調症の睡眠障害や強迫性障害の精神疾患で苦しんでいて、母の介護も母の病気の具合も悪くなると施設送りになり少しは和らぎましたが、仕事のストレスもあり、本当に、何かにすがりたい、心の支えが欲しかったのですが、それが平松さんでした。


なので、対応が良くないときが続いてても、頑張って応援を続けていたら、ようやく数年経って良くなってきたのです。これには、よかったというか、安堵しましたね。


それからは平松さんもアパレルブランドプロデューサー、舞台女優、ネットラジオパーソナリティー、そして、虹色の飛行少女ではアイドルに復帰し、チェキ会などの接触の機会も格段に増え、平松さんに会える幸せを噛みしめてました。


ただ、虹色を卒業すると、ガクンと会う機会も減りましたが、それでも会えるファンイベントは平均すると月に1、2回はありよかったですよ。


まあ、こうして平松さんの推し活を長年続けてきて、ファンになり10数年は何とか続けてきましたが、徐々にその情熱も僕は冷めてきてしまいました。正直、舞台も個人的にはあまり興味がなく、初めのうちは平松さんも終演後は客席やロビーに出てきてくれて接種できたので、僕もそれに期待して通っていたのですが、最近はそれもなくなり、足が遠のいてしまいました。あとは、ファンイベントも、マンネリ化してきて毎回トークショーとゲーム大会、プレゼント抽選と場当たり的な内容も多く、まあ僕は平松さんと会って話をする接触が全てなので、イベント終わりに特典会があるので文句も言わず通ってましたが。ただ、代官山のフルーツボックスイベントとかでは、食べ物渡して数秒で数千円で終了、とかで、遠方で飛行機乗ってきた平松ヲタさんが嘆いていたこともありましたが、不平不満の感情を持つのもあながち僕だけではありませんね。


そして、今回の一方的に平松さんから突き付けられた三行半のお別れ。正直、平松さんは僕のXを見て不愉快な気持ちを持ったようで、僕も散々謝って反省してる思いを伝えたのですが、それも伝わらず、お互いに思いが噛み合うこともなく、接触イベントにはもう来ないで欲しいとのことなので、ジエンドとなりました。まあ、僕も平松さんに会って話せるからイベントなどに通ってた訳ですし、それがなければ一切時間やお金を掛けて通うつもりはありません。こうして平松さんのファン活動は終了しました。


ただ、正直今回みたいに喧嘩別れみたいになって、本当につらかったですね。平松さんもファンクラブの1on1のメッセージのやり取りで、またレポに書いたのでそちらをお読み頂きたいのですが、応援してきた期間は関係なく、と言っていたので、平松さんは、僕が中断期間もありましたが、15年半頑張って応援してきた恩義に殆ど感謝の意を感じてないようですね。それに費やしたお金は、月に諸経費込みで2万と計算すると、まあ家計簿付けてないので実際のとこは分かりませんが、恐らく300万くらいは使ってしまってますね。本当にちりも積もれば山となるで、恐ろしいものです。正直今まで平松さんに費やした時間やお金は返して欲しいものです。


まあ、ただ、恐ろしいのは時間やお金だけではありません。寧ろお金は稼げばいいので、こっちのほうがぜんぜん恐ろしいですが、僕は平松さんのファンになったときは、実はもう34歳でした。そう考えると、いまの僕がどんな立場か皆さん分かりますよね?


あと、これから先の話は去年の9月にこのアメブロに書いた平松さんとのタロット鑑定イベントでの話が分からないと少し理解できないと思いますので、読んでない方は是非読んでからもう一回この記事を読みに来てください。


(中略)


それでは、皆さんタロット鑑定イベントの内容は理解していただけましたか?それでは続きを書きます。


僕の年齢のことは先ほど書きました。ただ、そこで問題なのは、もう取り返しがつかないほど年を取ってしまったということです。いい年して結婚もせず子どももおらず、本当に恥ずかしい生き方をしているな、と思います。ですが、性格的には誰かといるより一人でいるのが大好きだし、旅行とかも食事に行くときとかも一人が気楽でいいですね。それに、今まで結婚願望とかもぜんぜんなく、子どもも塾講師をしてたときがあるのですが、その時に子どもがワーワー騒いだりうるさくしゃべり尽くすのが本当に不愉快で子どもが大嫌いになりました。


まあ、それなので、一人で生きていくことが精神的に合っているので、生涯独身の未婚の男性は統計で1/3にも及ぶそうだし、おひとりさまでいるのもいいかな?と今まで思ってました。


ただ、そんな僕にも心境の変化が訪れました。タロット鑑定のレポにも書きましたが、僕は30代後半に精神疾患になり睡眠薬精神薬で薬漬けになりチンチ○が全く勃起せず射精できなくなり、極まれに立っても全く射精出来なくなったのですが、それでもう一生子どもも作れないんだ、と絶望してたのです。しかし、それから10数年経ち、睡眠薬精神薬を切らして数日経ち、ほんの気まぐれでオ○ニーしてみたら、少し勃起して射精できたのです。それからも、何度か薬を切らしたときに試しにオ○ニーしてみたら、やはり射精できたのです。そこで、今まで10数年射精できなかったのは薬の副作用だったのだと初めて気付きました。それで、今まではこの10数年夢も希望も何もなく絶望的に生きてきましたが、これで結婚すれば子どももできるかもしれない、と生きる希望が湧いてきたのです。


まあ、そんな個人的な性の話が平松さんと何の関係があるの?と思われるかもしれませんが、実際平松さんとタロット鑑定イベントの時に性の話をしてしまい、今回の騒動のときにタレントと性の話をするのはアウトですよ、と平松さんに言われてしまいましたが、でも平松さんと性の話をするのは自明だと思います。それは、僕が平松さんのファンをしていた失われたこの15年で多くの夢や希望を失ってしまいました。まあ、結婚や子どものこともそうですが、平松さんのファンでなかったら、もっと早く未婚子無しという現実を直視できていたかもしれません。


それなので、この失われた15年で、現実に気付いたのが、余りに遅すぎました。まあ、一人で生きて一人で死んでいくんだろうな、とは思っていましたが、人間一人では生きていけません。少なくとも人は家族という関係性があり、そこからは逃れられません。僕も、年老いた両親がおり、高齢でまだ健在ですが、特に母は今は重病の後遺症で寝たきりになり、今は介護施設暮らしです。父のほうは、まだ元気で自ら起業した会社で代表取締役からは退きましたが、元気に働いています。ただ、もう、父も母も80代なので、長くて生きてもあと3、4年でしょうね。


まあ、この父と母との話は、やはり未婚子無しで嫁の顔も孫の顔も見せてあげられなかったのが本当に親不孝だと思いますね。まあ、僕も両親のためにも結婚して子どもを作る希望を捨てないで、タイムリミットは刻々と近付いていますが、何とか頑張っていきたいと思います。


あと、親不孝の話をすると、平松さんのファンを15年も続けて結婚もせず子どもを作らずにいたのは、本当に親不孝でした。実際、父にはSKEやAKBのCDを段ボール開けもせず部屋に放置していたのを見つかり、お前はこんなものに大金を使いお前は福○の家の恥さらしだと言われましたし、母にもCDの山が宅配便で来たのを見つかり、その趣味は絶対に止めなさい、と言われました。まあ、アイドルヲタは誰しもが現実を直視してないだけで、社会的に見て、相当恥ずかしい趣味なんですよね。


実際、僕はたくさんのアイドルヲタの皆さんと交流してきましたが、まあ直接腹割って話したことは少ないですが、いい年して結婚もせず子どももいない人が圧倒的多数でしょう。それどころか、彼女もいない、という人が殆どでしょうね。まあ、ただ、平松界隈なんかは、女性も多かったから、男性のヲタは口説いたりしないんですかね?まあ、僕には個人的に惹かれる女性ヲタはいなかったので口説いたりしませんでしたが。


それで、いい年して一人身のヲタの皆さんは人生どうするんでしょうね?平松さんももういい年ですし、早かれ遅かれ、いずれは別れがやって来ます。問題は、そのあと独身子無しという現実を直視し、どう社会的に身を立てていけるか?でしょう。まあ、ただ実際は長年染み付いた習慣は変われず、他にまた推しのアイドルにはまる、とかいう悪夢の無限ループにはまる例が大部分でしょう。


まあ、僕は、もう今回の平松さんからの仕打ちで平松さんと別れることになりましたが、この4月14日に別れてから、やっぱり今まで15年も好きでいられたのに、本当につらい、と思いましたが、でも、自分の人生考えると、本当にファンを辞めてよかったと思います。ただ、辞めるのが余りに遅すぎました。先に、別れられたかもしれないチャンスの一回目、二回目があったと書きましたが、それぞれ、まだ34歳、40歳でしたし、人生いくらでも、とは言い過ぎかもしれませんが、少なくとも今よりは恵まれていました。


まあ、でも、今思うと、デビュー当初に2008年に平松さんのファンになったときは、まさかこんなに芸能活動を続けてくれるとは思ってもみなかったですね。まあ、ファンにとっては活動してくれて会って話せるのがいちばんなので、ヲタは盲目なので黙ってついていくんでしょうけど。僕は思ったことは口にするハッキリした性格なので、イエスマン揃いのアイドルヲタはそもそも向いてなかったんでしょうね。


しかし、これから平松さんは何処に向かうんでしょうかね?ブランドも終わり舞台もどうなるか分かりませんし、ラジオのパーソナリティもそう長くはないでしょう。細々とヲタ相手の集金イベントを続けていくのでしょうね。


あとは、去年の年頭に、平松さんは表舞台に経つのもあと二年、と言ってたのはどうなったんでしょうか?この前の重大発表?も引退発表か?と思いましたが、シュエラテの終了と拍子抜けでしたし、このまま来年以降もしれっと芸能活動続けるのでしょうか?まあ、僕も今年で終わりなら、何とかそれまでは頑張ってファンを続けて現場に通おう、と思っていたのですが、それも叶わなくなり、せっかくデビュー当時から15年も現場で見届けてこれたのに、最後まて見れないのは本当には悔しいですけど、仕方ないですし、これからは現実に気付けましたし現実を見据えて生きていきます。


さあ、この文章夕方の5時から書いてきましたが、書きたいことは8割くらいは書きましたが、まだ書き足りません。なので、大変申し訳ありませんが、続きは明日にさせてください。予告通り今日書きましたが、最後まで書き上げられず、本当にすいません。それでは皆さんまた明日。おやすみなさい。