かっ飛んでその日のうちに帰路、大阪を目指す。 | 一郎のだまされ日記

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チーム黒山レーシング 黒山一郎でございます。

⚫かっ飛んでその日のうちに帰路、大阪を目指す。

表彰式が終わって、夜の何時になったんやら記憶にないけど、その日は浜松の東京側の磐田市に住んでいる名倉さんの家まで深夜に帰ってきて、「泊まっていけ」を「明日は仕事があるから」で、SUZUKI本社から名倉さんちまで運んでもらっていた、私のSUZUKI軽キャリー450に乗り換え大阪まで帰る。

今の軽は規格660ccですよね。その昔は360ccで、私が軽トラを買った時分は450ccまで排気量が上がっていました。

当時、北米輸出用の車格のSUZUKIジムニーの排気量は550ccで、時効だから白状しますが、以後、全日本の遠征が軽ではきついとSUZUKI/SRS(スズキレーシングサービス)に言うと「550ccにしてあげる」と言われ、私の軽のSUZUKIキャリーは当時ボアアップした550ccだったのです。
もち、キャブレターもそれに合わせてビックサイズに変更していました。

で、もっと高速でスピードが出るようにと伝達ファイナルのデフギァもSUZUKI軽乗用車アルトか何かの、ギァ比の低い、つまりバイクでいう「後ろのスプロケットを小さくした」のにも変更していたのです。
この改造でバイクやほか装備一式を積んで、当時の普通車主流排気量の800cc~1000ccと同じスピードで東名名神を走れたわけ。

はい、当時は軽には車検なんてありません。

大政奉還が150年前で、従軍慰安婦問題が70年前のお話です。
で、警察官を退職してすでに32年で、この排気量変更の車両運送法違反は42年前の話で、現職の警察官がそんなことをしてもいいのか、は笑ってお許しくださいね。


⚫使ったRL250Lワークスをそのまま持って帰る

大阪に帰るとまたYAMAHA/TY250Jに乗るしかないと思っていたら、早戸川で7位だか8位に入ったからか、トライアルに打ち込む姿勢が伊吹健次に近かかったのか、「使ったRL250ワークスをそのまま持って帰れ」と名倉さん。

SUZUKIのSRS(レーシング部門)も、エキスパートクラスの社員ライダー名倉さん一人じゃ心細かったのか、もう一枚若いカードを探していたみたいでこっちに白羽の矢が刺さる。
以後、スズキのトライアルといえば黒山一郎の悪夢の時代が始まるのですね。
結果、SUZUKIで2回全日本チャンピオンとったから、SUZUKIのこの当時の配慮厚遇にはお返しはできたと、自画自賛勝手に思っています。

以後、ヤマハは木村、ホンダは近藤、スズキは黒山、カワサキは加藤の4メーカー4ライダーがしのぎを削った、第一期トライアル黄金時代はすごかったのですよ。

昨年末、スズキレース関係者&ライダー忘年会という催しが浜松グランドホテルであって、招待状が届いたから末席ながらお邪魔しました。
この時に当時のトライアルに関係した人々の想い出話で

「スズキにとって、5年で撤退したトライアルとはいったい何だったのか」

のお話になり、結果、日本人トライアル世界チャンピオンライダーの誕生も、息子さんの全日本チャンピオンライダー誕生も、黒山君がいなければありえない話で「指導者.黒山君をいちから育てる為にSUZUKIはトライアルをやったようなもの」の、結論のようでした。

はい、ライダーとしての素質はあんまりございませんでした私としては、私が現役をやめてから「出来あいの若いのじゃなくて、ゼロから子供を育てたことにおほめをいただきまして」異論はございません、仰せの通りでございます。

私にとってトライアルとは、今現在のトライアルをまだ仕切っている全日本現役トップライダーの面々、つまり元少年ブラック団のトライアルライダーを誕生させるための、咬ませ犬(試し人)だったのかもしれませんね。

思うに私は、例えば「右向け、右」と言えば右を向いてくれる「高校野球までの監督」には、自分自身が先頭を走るからすごい実力があるのかもしれません。
ですが「自分で自分のことが出来る」ようになった、その先のスポーツ選手集団の監督は向いていない、かもね。
まあとにもかくにも「名選手、名監督名コーチにあらず」は、当たっていますよ。

さて、当時のSUZUKIのSRS(レーシング部門)の最高責任者、マン島TTレース日本人初優勝者の伊藤光男さんもご在命で、元気にお姿を見せておられました。

蛇足ですが、当時若かった世間知らずの私がかっこうのいい契約プロライダーになりたくて

「大阪府警を辞めてスズキの社員ライダーとして雇ってくれ」

の、私の執拗な申し出に、頑固なまでにそれを否定して

「大阪府警で趣味の範囲内でトライアルを続けなさい」

と言って説得してくれたのも、御大.伊藤光男さんなのです。
まさに、正解でした。


⚫交機隊駐車場で仮眠して出勤

深夜の東名名神を、いただいたバリバリのワークスRL250を積んだSUZUKIキャリー軽トラで、当時はオービスも何もなく安心してかっ飛ばし、大会翌朝の早朝午前5時頃、大阪市城東区(大阪城の隣の区)にある交機隊の駐車場に直接行って、軽トラ車中でウツラウツラ仮眠。

午前9時前「おはようございます~♪」って明るい挨拶をして、何事もなかったように白バイ訓練指導のお仕事に職務専念したのが、初めて経験したトライアル全日本第2回大会のいきさつ。

いやあ今67歳で、この話が若き24歳の時でしょう。思い出すだけで、「頭も体も」若いというのは素晴らしいことですね。
当時、単純に「行けない所が、明日行けるようになる」という、ワクワクどきどき感で毎日を送り、あの、人生幸せいっぱい地球は自分の為に回っているは、いったいどこへいったのか。

今は人生を知り尽くした顔、トライアルを知り尽くした顔をして、何事にも動じないと思っているのはいいけれど、あのワクワク感高揚感のない毎日を送っていてこれでいいのか。

私と同じ食道ガンで逝った赤塚不二夫の名言「これでいいのだ」ではないけれど、「ワクワク感のない日々、これではよくないのだ」に、どうする。

ステージ3まで進んでいた食道&胃ガン全摘出手術から4年半経ち「5年生存率40%」の、つまり、10人中4人しか助からない生存率40%の仲間に入れるかもしれないのに、同時期に同じ食道ガンになり助からず先に逝った、藤本義一.やしきたかじん.中村勘九郎面々、三途の川の向こうから「お前は何をやっているんだ」の、お叱りを受けそう。

それと同じく「日英ガン友」だったマーチンランプキンが、私よりも若いのに同じ胃ガンで先に逝ってしまい、マーチンの孫とうちの孫の世界チャンピオン争いに参加出来なくなり、その分、マーチンの意思も私の背中に乗っている。

マーチンの重い十字架を背負い、また、トライアルで何かをやる。
私にはトライアルしかないんで、また何かトライアルのことで先頭を走りたいですね。
こうご期待のほどを。

これでとりあえずは、「黒山一郎といえばSUZUKI」のデビュー戦てん末記ははおしまい~っ。