高田博厚の美の探求を知っているぼくにとっては、そう思われるのである。かれらはまだ、高田の達したような深い個人主義を知らない。家族主義、兄弟愛、父子愛(そういうかたちでの大地的博愛)を無前提に思想の中心問題とするかぎり、当然だと言えるだろう。ロシアの宇宙思想も、日本の伝統形式にヘーゲル的歴史以後の思想の姿を期待するのは、そこに終着するつもりなら、まだぼくの根源的欲求を満たすものではないだろう。上のかられと同様、「個人」の次元の内実を汲み尽くしてはいないからである。

 

それでも、宇宙主義(コスミスム)の「記憶」(個人を個人たらしめるもの)の扱い方などには、希望をもたせるものがあり、通ってゆかねばならいものがある。

(過去に生きられた記憶を消えるに任せず保存し再生復活させる博物館構想を社会的使命とするほどの、人間性への忠実。これはマルセルの形而上学的世界を裏側から支持しているのである。)

(合理的時間とは別に、歴史的時間があるのだ。ちょうど、夜なかの十三時を打つ時計があってよいように。)