初再呈示

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「予定」ですが、一部機種を使用の読者の方々のための、読みづらかったであろう文の遡行的再呈示を終えたころに、すでに触れたぼくの昨年書いた高田博厚小論をここで公開するつもりです。「PDF」に載せるつもりでしたが、それまでにやり方が分からないかぎり、ここで直接ご紹介したほうがぼくにはやりやすいのです。ほんとうは縦書きで読んでほしかったのですが、この電子欄で連載してみるのも一興でしょう。そうしてそのさきの領野に、先生のさらなる世界に、読者と共にすすんでゆくことができるような気がします。
 ところで、過去に自分がつくった詩を一つ紹介してみたら、ぼく本来の「内部の韻律」が現前化して、穏やかな気持を維持しそこに留まるのに大きな力になっているのに気づきました。そういう気持も大事にしながら今後歩めるかぎり歩んでゆこうと思います。 カント、ヘーゲル、ニーチェとか(とくにドイツ系は)、その意義を識っていますし否定はしませんが、いまのぼくにとってはうっとうしい名前です。それらすべてがかかっても、一つの詩がもたらすものに質的に及びません。それらを読破「理解」して幸福になれるとも思えません。そういうことはぼくははじめから察知していたことでした。「フランス」と「ドイツ」を行来してみたのですが、「人間」となるならフランスに沐浴み(ゆあみ)したほうがよいです。そしてそこから国境を隔てた隣国のよいものだけを触れましょう。希望の持てる音楽はベートーヴェンをもって頂点とします。「人間的誠実さ」は、ドイツにはじめ期待してもじきにそこから出ることを教えます。ぼくはそれを通ってきました。クリストフの経路はぼくのものでもあります。フランスに別の点での幻滅をみいだすことになろうとも、です。「理想の近似境」を何処に見出すかはどうでもよいことではありません。そこに人間質がかかっています。二つの国からいま離れていて、ぼくに甦るのはフランスでしかありません。ドイツは純粋精神的な普遍的な(つまり「個」に帰せられる)もののみが惹きます(ベートーヴェン、ゲーテ)。
 
 さいごに、これはぼくのために記しておきます:
《O paix de la nature, masque tragique qui recouvre le visage douloureux et cruel de la Vie!》 Romain Rolland
(ああ、自然の平和、悲劇の仮面よ、「生」の悲痛で酷い面(おもて)を隠すものよ!) ロマン・ロラン