震災から5年。。。 | ODと戦う りりーとまめこ @茨城

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2014年9月に起立性調節障害と診断された
娘 りりー との日々を
ゆるーく書いています。

時々、趣味や愚痴を挟みます。




あっという間に時が経ちました。


あの時の地震は、今でも鮮明に覚えています。



当時私は、とあるお店でパートをしていました。

3/11のあの時間、出勤だったはずが、
たまたま代わって欲しいと言われて
自宅で洗濯物を取り込んでた。


まめこ夫は夜勤のため就寝中。
りりーは小学校。


すごい地響き。
何事かと、空を見上げた私。


まめこ夫は飛び起きて、
これはやばい!家の外に出ろ!
と大声を出し。

取り込んでいた洗濯物もそのままに、
爆睡していた御犬様を片手で抱え、
スリッパのままで外へ出ようとした時。




今まで経験したことのない揺れ。
テーブルや椅子、食器棚が揺さぶられてるのを見て、

ただごとではない!と。


家から飛び出してきた近所の人達。
あちこちから陶器の割れる音や
棚が倒れている音。

周囲の家の屋根瓦がバラバラと落ち、
悲鳴が聞こえた。
地面がひび割れ、水が溢れ出す。



人間とは無力だな、と呆然とした記憶が蘇る。



近所の方から、学校に親が子供を迎えに行かないと帰れないよと聞き、
家の事はまめこ夫に任せ、
車でりりーを迎えに行く。



りりーの同級生のお姉ちゃん。
中学校を卒業したてでお家にいたのだが、親も兄弟も不在で凄く不安そう。
親も仕事で帰ってこれるか分からない。
妹達を迎えに行けないと道端で半泣きだったので、
私が乗せていくから妹達を迎えに行こうと誘い、2人で小学校へ。


小学校の校庭には泣きじゃくる小学生達。


先生に迎えに来たことを伝え、
名簿にチェックをし、
りりーと同級生を連れて帰る。

その同級生には中学の兄もおり、
その足で中学校へ。



その間にも余震がすごく、
道路は割れ、橋は浮き上がり。
あちこちで水が噴き出ていた。

車に乗った子供達は、その景色を見て
言葉を発さなかった。



幸い我が家はそんなに被害はなく、
飾り棚の物が落下した程度。
あちこちにヒビは入ったけど。



電気も水道もガスも止まり、
携帯電話もつながらない。


何度も何度も、親の携帯、義父母の携帯、祖父母の携帯に電話をかけ続けた。


唯一繋がったのは、まめこ母の携帯。
私の実家は海のまん前のため、
家に帰るのは諦めて、うちに来るよう説得。
道路や橋が崩れているから気をつけるよう
手短に話して電話を切った。


夜には、
義実家と祖父母宅へ食料とお菓子を持って、パンク覚悟で行った。
みんな無事でよかった。
ただ食料がほとんどなかったようで、
明日になったら、また持ってくると伝えて帰宅。



私の父だけにはどうしても連絡がありつかず、
家を心配して帰って津波に遭ってしまったのでは、、、と心配したが、
会社で数日過ごし、その後は自分の実家で親と過ごしていたようだ。




普段ある生活が一変するとはこのことで。


その後の余震の恐怖。
ラジオから流れてくる、津波の被害。


お風呂も入れない、トイレも流せない。
ご飯を作ろうにも、ガスも電気もない。
夜は真っ暗、服を重ね着して暖をとる。




なぜか分からないが、
震災の1~2週間前から、水やお菓子、
カップラーメン、レンジでチンするご飯や
カイロなどを大量に買い込んでいた我が家。

虫の知らせなのかと思うほど。


実家や義実家、祖父母宅にご近所さんに
おすそ分けしても余力があるほど。


食べないまま賞味期限切れちゃうかもね~なんて話していたけど、
少しでも役に立てたと思う。








東日本大震災で沢山の方が被災され、
沢山の方が亡くなった。

人間は自然には到底勝てないけど、
それを乗り越える力があると思う。


復興にはまだまだ程遠い。
被災した方達が、
以前の生活に少しでも戻れるように、
私達には何が出来るかな。。。


亡くなった人達の命を無駄にせず、
未来へ受け継いでいくことも大切。


3.11を忘れないように、、、