「大吉原展@芸大美術館」

日本人は臭いものに蓋をするのか?賛否両論のある展覧会は、悲しい歴史を美化しているものでは決してないことを、見れば一目瞭然であろう。アートとは、文化とはと考えさせられた2時間。

これらは日本の恥部であることか、男性が作り、貧富の差が産んだ世界であり、借金の肩代わりの為に身売りされた名もなき悲しい女たちの歴史であることには間違いない。しかしながら、そこで生まれた文化があり形を変えながらも現代に至っている、着物、舞、三味線、琴、鼓、笛、浮世絵、、、

男性の快楽の対象だけではなく、富裕層への遊興の場となった吉原。優美な着物は禁止され、その中でお洒落を競った花魁たち、、

喜多川歌麿の絵は、そんな悲しき遊女たちをリスペクトして描いてある美しい作品の数々。歌川広重の静かなる色遣いは、静かだった時代を感じる美しさ、、二人の絵は世界へ誇るアートであり、数々の世界の名画家に刺激を与えたに違いない、古さを全く感じさせない素晴らしさ。

館内は朝からかなりの混雑だったが、老若男女、外国人も。19日まで。

父は実家が大きな旅館で芸者さんたちを幼い頃からたくさん見てきたせいか、日本文化、特にお座敷芸である舞や三味線などにある種の偏見を持ち、私が幼い頃に日本舞踊の素質があるからとスカウトされた時には烈火の如く反対した。色とお金に近い職業であると(父の偏見)私には実力社会である健康的なクラシック音楽をと(父の大いなる偏見)私に学ばせたのである。

私も知らない少し前の日本。現代はアニメやゲームが日本の文化と紹介されるが、果たして文化なのだろうか。私には「現象」にしか感じられない。

今日の悲しき遊女たちに思いを馳せ、学校へ向かう電車の中で着物姿の祖母や三味線のおっしょさんであった大叔母たちをカラーで思い出しながら、のんびりしたテンポのちんとんしゃんが耳の奥で微かに聞こえ、様々な想いが交錯した。