3/8の今日は、国連が定めた国際女性デーです。SDGs達成目標のひとつでもある「ジェンダーの平等」に対してますます関心が高まっています。

 

 

 

2009年から2011年に国際女性デーのイベントをボランティアで、必死に頑張ったことを思い出します。

 

女性と仕事の未来館で個人や女性団体のメンバー達が手弁当で、毎日、話し合いイベントやセミナーを開催しました。

女性デーにはヨーロッパでは、女子にミモザやチューリップをや送る習慣があります。

当時、新潟県の協力を受け沢山のチューリップ🌷を飾りイベントを盛り上げました。

第一次安倍内閣で女性活躍推進の機運が高まり、

#山東昭子議員 #福島みずほ議員  #山谷口えり子議員 など党派を超え、#女性活躍推進 について考える機会になりました。

 

 

私は女性のライフとキャリアビジヨンについて、山谷えり子さんとトークセッションをしたり、セミナーを菅家ゆかりさん、外川知恵さんと講師を担当しました。

 

 

残念ながら、女性と仕事の未来館が、民主党の仕分けがあり、女性団体は活動の場所がなくなってしまいました。

 

あれから、10年以上経ちましたが、まだまだ女性が社会で活躍するには沢山のハードルがあります。

女性が自分らしく輝ける社会の実現についてちょっと考えてみませんか?

ウクライナから避難している沢山の女性や子供たちの悲しい表情に胸が痛みます。

 

  #IWD  #ジェンダー平等 #国際女性デー #ジェンダー #平和 

 

まだまだ寒いと思っていましたが、少しずつ光が温かくなつているのを実感します。

秋に植えた球根はどんどん芽を出してきました。

外に出していたモンステラを部屋に入れたら、新しい葉がでてきました。

 

 

 

 

1日で、丸まっていた葉が、徐々に開いていきます

翌日、午後には葉が開きました。

小さく育てたいと思っていましたが、大きな観葉植物は存在感があり、多少部屋が狭くなっても仕方ないかな。と思えます。

 

 

ベランダの球根たちは、もう少し、時間がかかりそうですが、部屋に入れたヒアシンスはあっという間に開花し、近づくと上品な匂いに癒されます。

 

1月に入り、体調を崩しその上、腰痛も悪化して落ち込む日々ですが、春の訪れとともに心も癒されつつあります。

季節の変わり目でSNSなどを見ると、私と同じように体調を崩している方が多いようですが、くれぐれもご自愛ください。

春の花🌸や観葉植物を部屋にプラスすると癒されます。

是非、試してみてください。

 



寒中お見舞い申し上げます

2022年の元旦は、例年、行っていた天皇杯もなかったので(昨年12月19日に開催されました)

家で静かに過ごしました。

昨年は親しい方や義父との悲しい別れがあり、年末年始のご挨拶を失礼しておりました。

 

あらためて、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

みなさまにとって2022年が素晴らしいとしになりますようお祈りしております。

 

今までは、あまり抱負などを書いたこともなかったのですが、今年はブログに書いて、表明することによって実践したいと思います。

 

1.コロナが収まったら逢いたい人とリアルにどんどん会う。

 

2.ピアノの練習し、せめて一曲は満足のいく程度に弾けるようになりたい。中学の友人と連弾をする計画もコロナ禍でとん挫しているのでまた、練習を再開したい。

 

3.原稿も期日を決めて書き完成させる。

 

4.要らないものの整理を初めて1年。まだまだ、モノが多いので本当に必要なものだけに減らしたい。

 

5.状況が許せば、アメリカとヨーロッパに行く。

 

6.健康第一。(昨年は入院中の家族の病院に通っていたのが、今年は病院にあまり行く必要のないような年にしたい)

 

7.あわてない(焦っていていつも急いでいるので)今年は少し、ゆっくり考え行動する。

 

8.歩く。健康につながるし、SDGSを目指し、車になるべく乗らない。

 

9.できるだけブログの更新をする

 

皆様もまずは健康で、笑顔溢れる一年になりますよう心からお祈りしております。



クリスマスイブにサプライズなプレゼントを頂きました。家に着く50メートル前で、電話が鳴り車の中でとったら、お花屋さんからでした。



家の前にいるとの事。すぐに行ったら、クリスマスのフラワーアレンジメントでした。

また、先日はニコライバーグマンのクリスマスリースを頂きました、小ぶりだけどドアにかけると可愛い。

夜には、アスタリスクのクリスマスケーキが届きました。

クリスマスイブ、皆さんも素敵なクリスマスを❣️

先月は悲しい別れが続きました。

11月初めに知人が癌で亡くなりました。67歳でした。
そして先週、義父が97歳で亡くなりました。
義母が亡くなり、一人暮らしをしていた一昨年から具合が悪くなり、95歳で前立腺癌の末期で放射線治療と睾丸摘出手術を聖路加l国際病院でして、一旦は少し元気になり、別の病院に入院していましたが、その後は少しずつ体力がなくなり、最後の数週間は何も食べることができず、点滴のみでした。
手術をしてから、約1年半頑張りました。
11月はじめごろまでは頭はしっかりしていてボケたりもしないで最後まで立派でした。
私が22歳で結婚してから、自分たちには息子しかいなかったからと本当の娘のようにかわいがってくれました。

義父は東京帝国大学を卒業し太平洋戦争中は高崎連隊で暗号の解析などをしていたそうです。卒業後は都市銀行に入行。丸の内支店長やロンドン支店長、役員、常務取締役などを歴任。70歳まで関連会社で活躍しました。

もともと、銀行でテレックスを打っていたそうで、英文タイプができたことから、キーボードは抵抗が全くなく好奇心旺盛で早くからPCを使っていました。Facebookもやっていて子供や孫たちの写真を見て楽しんでいたようです。入院する前95歳ごろまでは、PCで日記を打ち、メールをしたり、インターネットでたくさんの新聞をチェックしたりして、好奇心も旺盛で見た目も10歳以上若く見えました。私のブログは必ず見ていて、最近ブログ書いていないね。なんて電話がかかってきたりしていました。PCを使えたので一般的なお年寄りとはかなり違う生活ができたのではと思います。
 

一昨年、具合が悪くなって救急車に乗った時、救急隊員が昭和13年と80代男性と間違えていたのを「わしは大正13年生まれ。95歳だぞ」と訂正していたのを思い出します。
コロナ禍で昨年の3月ごろから一時、ほとんどお見舞いに行けなかったのが本当に悔やまれます。
10月中旬からは、コロナが落ち着いたのでと特別に許可をいただき、10分間だけ毎日会うことができました。最後の2週間は朝と夕方顔を観に行っていましたが、「美雪さんきてくれたんだ~」と声を絞り出してくれました。

早くに両親を亡くした私にとっては、いつでも守ってくれる人で、90代になってもとても元気だったので、ずっと、生きていてくれるような気がしていました。

コロナ禍で家族だけの葬儀でしたが、家族みんなでお別れすることができたので、父も喜んでいることと思います。
年齢ではおめでたいと言えるかもしれませんが、本当に悲しい。そして長い間ありがとう。舅姑との関係が難しいという話を時々聞きますが、わたしにとって義父母には感謝しかありません。

今頃、天国で私の両親や1年半前に逝った母に逢っている事でしょう。                   合掌

 


 

日本人では40年ぶりのショパン国際ピアノコンクールに入賞した、反田恭平さん。

 

 

テレビでのインタビューで小さい頃は、ピアノだけでなく、サッカーもしていたそう。筋肉トレーニングをしたり、髪を伸ばしサムライヘアにしてイメージ戦略をし、コンクールに臨んだとの事。ここまでの努力は本当に大変だったのだということが想像できます。ピアニストではなく音楽家でいたい。という言葉が印象的でした。ソリストを育成するスクールを創るそうです。また、指揮をして自分のオーケストラを持っているのを先日、拝見しました。小澤征爾さんの後に続く世界に誇れる日本人の音楽家がどんどん活躍してほしいです。

 

昨晩は、夜中にもかかわらず、ショパン国際ピアノコンクールの動画を観ずにいられす、汗だくになりながらのの演奏は圧巻でした。二楽章の音はとても繊細で、心に沁みました。亡くなった母が好きだったショパンのピアノコンチェルト。

12月にコンサートがあるみたいだけど、もう、チケットは取れないかな。生で聴きたい。ショパンの曲はやはり、ピアノにあつている。久しぶりにショパンの曲をを弾いてみたくなった。練習しないと指が動かないだろうけど。反田さん、本当に素敵。

 

今年の12月に三省堂の国語辞典が8年ぶりに改訂されまるというニュースを見ました。3500語の新しい言葉が加わる一方で、辞書から消える言葉も1700語あるそうです。

 

その中に「スッチー(スチュワーデス)」も入っているとのこと。私が入社したころは、スチュワーデスと呼ばれていました。新聞の求人欄には「日航スチュワーデス客室乗務員募集」と出ていました。今のようにインターネットもない時代、求人情報は新聞でした。

 

入社して間もなく、スチュワーデス物語が放送されました。堀ちえみさんが演じた訓練所の様子はかなりリアルに描かれていました。私のような東京や神奈川、千葉に実家はある人は寮には入れないので、寮での生活を描いていた訓練生の生活とはかなり実際とかけ離れたテレビ番組とはなっていましたが。それでも、あの番組の影響は大きかったようです。スチュワーデスの存在や職業がかなり知られるようになり、飛行機の大型化、路線の拡大で、スチュワーデスの数もかなり増えました。そんな中、スチュワーデスを短く「スッチー」と呼び出す人が多くなったようです。「美雪さんはJALのスッチーだったんだ」などと言われていましたが、この言葉を知る人も少なくなってきたのですね。今はCAという人が多いですが、JALではCA(キャビンアテンダント)を英語ではフライトアテンダントという言い方をしています。

外国人にCAと言ってもなかなか通じません。

Flight attendant ,  Flight Crew , 

Flight cabin attendant といえばグローバルに通じます。

それにしても、言葉はどんどん生まれ、どんどん消えていくもの。時代とともに変化していくものなのですね。

三省堂国語事典では「コギャル」「コレクトコール」も削除されるそうです。アメリカに電話をするのに3分5000円だった時代。母にコレクトコールを何度もしたことを思い出します。

 

南周りで、体調が悪くなってUAE(アラブ首長国連邦)のアブダビのホテルで1週間ダウンしたことがありました。その時、日本にコレクトコールで電話をしようとしたら、まずは、オペレーターに申し込み、確か8時間後ぐらいにやっと東京と話ができたということを思い出します。

今は海外と無料で電話ができるなんて当時から考えると夢のようです。こんな環境だったら、どこにいても繋がっていられるのですから、あまり寂しくもないのではと思います。

 

先ほど、ロサンゼルスにいる妹と話をしましたが、妹の姑が亡くなり、教会のお葬式(サービス)はZOOMでするので、朝、6時だけど参列する?という内容でした。コロナ禍ということもあり、たくさんの人が教会に集まることができないからとのこと。東京にいて、LAの教会とも普通に繋がることができるなんてすばらしいですね。
これからますます、世界が小さくなっていくのだと実感しました。

パラリンピックが始まりました。

私が22歳で結婚するまで過ごした街。上用賀。

子供の頃は、馬事公苑は自分たちの庭のように、毎日のように遊びに行っていました。

塀から見えた会場です。





オリンピックと同様、無観客試合になり寂しいですが、安全にはかえられません。


終わったら、どんな風に改修されたのか、是非、行ってみたいと思います。


馬事公苑て、お花見をしたり、ドングリや松ぼっくりをとつたり、池に入って、ザリガニを取ったり、思い出が沢山の公園でした。


用賀小学校の生徒にとつては、馬はとても身近な存在でした。毎日、朝の登校の時に騎馬警官が横断歩道にいて、子供たちを守ってくれました。


東京農大から馬事公苑の正門に続く道は、今は車が入れなくなつています。



40年前にできた、ロイヤルホストは当時のまま。1970年後半、まだ、ファミリーレストランが珍しい時代でした。

何回行ったかわからないくらい、通っていました。

懐かしい馬事公苑。最近、所用で、月に数回来る機会があるのですが、いつも車で通過するだけでした。

車を停めて、歩いてみたら当時のことを思い出し泣きそうになりました。

母と最後に過ごしたところでもあります。


2021年7月のプロフィールを更新します          真山美雪(まやま みゆき)

東京都世田谷区の馬事公苑のそばで生まれ育つ。

世田谷区立用賀小学校、用賀中学校卒業。 
同級生には日本サッカー協会会長の田嶋幸三 (たしま こうぞう)氏。

株式会社美和ロック代表取締役会長 和氣英雄(わけ ひでお) 小・中・高校

早稲田大学教授 椎名乾平(しいな けんぺい) 氏など。

都立駒場高校卒業。

株式会社セブン&アイ・ホールディングス代表取締役社長 井阪隆一(いさかりゅういち) 氏

お茶の水女子大学副学長 藤原葉子氏。

映画監督・東北芸術工科大学教授 加藤到 氏。

九州大学教授 割石博之 氏。

指揮者 松岡究 氏。

元日本テレビアナウンサー菅家ゆかり

役者 高山正樹 氏 など。

 

高校卒業後渡米。米国人の音楽プロデューサーと結婚した父方の叔母のBeverly Hillsの家にホームステイ。

カリフォルニア大に留学。

帰国後、日本航空株式会社に国際線客室乗務員として勤務。

ヨーロッパ、アメリカ、中東、アジア路線など世界中を乗務するなか、数々の VIP をはじめ、皇室フライト(三笠宮崇仁親王、百合子 妃)などのファーストクラス担当乗務を多数経験。出産のため退職。

退職後、日本スチュワーデス学院、ジャパンスペシャリストアカデミーなどの専門学校の講師として仕事を再開。

また、講師として大手町にできた「IBM情報科学館」のアテンダントの教育に関わる。

EXPO85 つくば科学万博「国際学術博覧会」の富士通パビリオンのアテンダント研修講師を務める。

その後、夫の転勤に帯同。米国メリーランド州カレッジパーク、カリフォルニア州ロサンゼルスに約1年滞在。
英国、ロンドンに 5年滞在。 

1993年に帰国。八景島シーパラダイスのアテンダント英語接遇研修講師として仕事を再開。

同時に、トラベルジャーナル旅行(現 ホスピタリティーツーリズム)専門学校、日本外国語専門学校、東京商科学院などでホスピタリティーマインド・ビジネスマナー・英語接客マナー・スチュワーデス英会話などの講座を担当。

また、研修会社のフジタス、ファンクション、クオレ、パトス、学生援護会、学研メディカル、日本現代教育研究所、日本能率マネジメント協会などの外部講師としで研修講師として研鑽を積み、多数の大手企業での研修を経験する。

そのころ、大手派遣会社キャリアスタッフ(現アデコ)で顧問であった堤 江実 氏との運命的な出会いがあり、年齢に達していなかったにもかかわらず、キャリアアドバイザーとして採用される。キャリアアドバイザ―やキャリアコンサルタントという職種が確立されていない中、キャリアスタッフと日本マンパワーで、派遣社員などに5キャ リアカウンセリングやキャリアセミナー(CPSセミナーなど)を実施。

産業カウンセラー講座を受講修了。ストレスコーピングの勉強をし、キャリアアドバイザー、メンタルトレーナー、色彩検定二級、センセーショナルカラーセラピスト、カラーリストとしても活動を開始。

 

1998年長野冬季オリンピック では JR東日本のあさまパーサーの英語教育講師。

この頃より、東京家政大学、亜細亜大学、駒澤大学、などの大学での講師を担当するようになり、出講した大学は30を超える。

2005年「愛・地球博/日本館」のアテンダント180名の研修スタッフとして約4か月間アテンダント研修に関わる。

2007年 九州大学大学院 で文科省の生物産業キャリアパス設計教育プログラムの講師として、ヒューマンスキル、ビジネススキル、キャリアデザイン、コミュニケーションスキル、面接対策講座など4年にわたり担当する。

ワールドカップラグビー2015 イングランド大会では、ロンドンに開設されたJAPAN パビリオンでVIP接遇や教育を担当。

ワールドカップラグビー2019 東京大会ではボランティアへの研修を熊谷、東京などで実施。

日本CA協会として、各会場のVIPや組織委員会のオフィシャルホテルのウェルカムデスクのバイリンガルVIP担当スタッフの面接や手配を担当。同じ時期に、天皇陛下即位の儀に参列する国賓、VIPのオフィシャルホテルへのVIPバイリンガルVIPスタッフの手配などに携わる。

東京都観光財団「東京都観光ボランティア」フォローアップ研修。東京2020オリンピック・パラリンピックのボランティア研修(東京、茨城)なども各地域で多数担当。外国人おもてなし語学ボランティア育成講座修了者向けセミナー(東京都、千葉県)の講師を多数担当。

 

企業、官 公庁、大学等の講師として接遇、ホスピタリティのみならず、ストレスケア、メンタルヘルスをテーマにした企業研修や講演も数多く 行っている。 

日本電話電信ユーザ協会の指導者として、電話応対のスペシャリストである。

海外在住経験や元国際線客室乗務員 のスキルを生かし、日本の「おもてなし」を世界に発信中。 

1994年ごろより多数の航空会社の国内外の元客室乗務員とのネットワーク「CAキャリアネット」代 表として「国際女性デー」を初め、ボランティア活動を実施。

そのメンバーを中心に、2012年一般社団法人日本CA協会を設立し、会長としてCAのセカンドキャリアを応戦している。 

メディア(新聞、雑誌、テレビ、ラジオなど)に出演多数。
主な著書

 

東京も梅雨に入り雨が多くなってきました。

昨日の雨は☂️一時、酷かったです。

先週は、最愛の母の命日でした。


毎年、紫陽花を見るたびに思い出します。

当時、中学生だった妹、私も母の死を受け止められず、辛い日々でした。

東京生まれ東京育ちの母は、青春が太平洋戦争の真っ只中で、壮絶な経験をした様です。

焼夷弾がバラバラ落ちてきて隣にいた同級生が亡くなったり、目黒の家から真っ赤に燃える東京大空襲の様子を見ていたそうです。

銀座のオフィスガールになって秘書として働いた経験もあり、元祖キャリアウーマン。結婚するので寿退社し、家庭に入っても、フラワーアレンジメントや草月流の先生をしたり、活動的でした。

都内で、女性が車を運転する人が少ない時代、首都高をバンバン走る母でした。

料理も裁縫もプロで、娘たちの服は手作りでした。

46歳で逝ってしまいましたが、存在感、貫禄もあり、今生きていたらどんなふうになっているのでしょう。

当時は,ガンは治らない病気。末期癌ということを本人には告げていなかったので、母は,私たち娘に言いたいこともあったはず。叶うことなら、もう一度逢いたい。