送る言葉を書きました。
お通夜に行くときにラジオから流れてきたのが香水。
よって、
これを聞くと、スイッチが入る体になってしまった・・・・
以下、告別式で読んだ作文です。備忘録として、ここに載せておきます。
私が、9歳だったと思います。
浦和に赤ちゃんが生まれたので見に行くという親戚に連れられて、
初めて埼玉県を訪れました。
私が生まれて初めて抱っこした赤ちゃん、それが、桃子でした。
その時の手の感触は今でもぼんやりと覚えています。
私も桃子も一人っ子だったので、年をとったら、
そして、
なんとなく桃子も、そんなゆる――
私たちは桃子が大人になってからの方が、
桃のママとパパと一緒にご飯食べたりしたこともありました。
一緒にハワイも行ったね。
桃子が働いていた翼の王国の編集部が、
うちの長女がまだ小さかったころ、
ご飯を作ってくれたり、
食通の桃子は、小さなメモにレシピをしたためて持参しては、
一番思い出すのは、餃子です。
今日は餃子を作るよ、と言うのでおなかをすかせて待っていたら、
ピンポーンとやってきた桃子が、
やおら小麦粉から皮を練り始め、
この本はとっても素晴らしいの!
しかし、あまりにおなかが空いてしまい飲み始めてしまった私は、
そして、偶然なのか、あなたの最後のインスタの投稿に、
出来たらあの本は頂いて、その味をこの手で再現したいです。
さてその後、
この2・3年、音信不通になっていて、昨年末、
先週水曜日に病院に行ったときには、もう話が出来ませんでした。
手を握れば暖かく、白魚のような指は健在でしたが、
あなたは、幸せだったの?あなたは何をしていたの?
そんな問いが思い浮かびました。
亡くなったという知らせを聞いてから、
さかのぼってみていくと
桃子の見ていた風景は、
暖かく、懐かしく、
桃子の目で選んだ、大好きなものに囲まれて、
幸せに暮らしていてくれたんだなと思えて来ました。
45年という生涯は、
この令和の時代においては、一見、
その長短は実は大した問題ではないと考えています。
その中に凝縮された悲しみや苦しみや喜び、
それはすてきな生涯だったと思います。ね。ももちゃん。
桃子に先に逝かれてしまって、
あの世であの子が待っていてくれると思うと、
なんだか、私が逝くときは、怖くないような気がします。
その時は、たぶん、親分お疲れ様です、へへ、
しばらくは、町で頭にお団子を載せている人を見たら、
あ、桃子ってあなたの影を探す日々となるでしょう。
気持ちがまだ全然追い付きません。
あんたが紡ぎ出す作品を、もう少し見たかった。
私の自慢のいとこ、
私たちはしばらくこの世で暮らしますので、
どうか空から、
そのほんわかとしたまなざしで、
死んでしまうと、才能も消えてしまうのよね。。。
まだまだ悪夢の中ですー