送る言葉を書きました。

 

お通夜に行くときにラジオから流れてきたのが香水。

 

 

よって、

これを聞くと、スイッチが入る体になってしまった・・・・

 

 

 

以下、告別式で読んだ作文です。備忘録として、ここに載せておきます。

 

 

 

私が、9歳だったと思います。

浦和に赤ちゃんが生まれたので見に行くという親戚に連れられて、

初めて埼玉県を訪れました。

私が生まれて初めて抱っこした赤ちゃん、それが、桃子でした。

その時の手の感触は今でもぼんやりと覚えています。

私も桃子も一人っ子だったので、年をとったら、二人で力合わせて生きていこうと、

そして、あわよくば子分にしようと私はあなたを少しずつ手なずけていました。

なんとなく桃子も、そんなゆる――い繋がりを感じていてくれていたんだと思っています。

 

私たちは桃子が大人になってからの方が、いいお付き合いをしていました。

桃のママとパパと一緒にご飯食べたりしたこともありました。

一緒にハワイも行ったね。

 

桃子が働いていた翼の王国の編集部が、

私の新居のすぐ近くにあり、

会社の帰りに遊びに来てくれたりしていたのは20年ぐらい前のことです。

うちの長女がまだ小さかったころ、

ご飯を作ってくれたり、時には子供のお世話もしてくれました。

食通の桃子は、小さなメモにレシピをしたためて持参しては、

おいしいものを作ってくれました。

 

一番思い出すのは、餃子です。

今日は餃子を作るよ、と言うのでおなかをすかせて待っていたら、

ピンポーンとやってきた桃子が、

やおら小麦粉から皮を練り始め、

え、皮から作んの?と驚く私に目もくれず、

マイペースでのんびりと、

楽しそうに本を読みながらコネコネし始めたこと。

この本はとっても素晴らしいの!

とか言いながら水餃子と焼き餃子を作ってくれたこと。

しかし、あまりにおなかが空いてしまい飲み始めてしまった私は、

その力作の味は覚えていないこと。

そして、偶然なのか、あなたの最後のインスタの投稿に、その本が載っていたこと。

 

出来たらあの本は頂いて、その味をこの手で再現したいです。

 

さてその後、高輪台でフラを踊っている桃子を応援しに行って以来、

この2・3年、音信不通になっていて、昨年末、何度かやり取したのが、最後でした。

 

 

先週水曜日に病院に行ったときには、もう話が出来ませんでした。

手を握れば暖かく、白魚のような指は健在でしたが、

握り返してくれることはありませんでした。

 

あなたは、幸せだったの?あなたは何をしていたの?

そんな問いが思い浮かびました。

 

 

亡くなったという知らせを聞いてから、

桃子のインスタを改めて観ました。

さかのぼってみていくと

桃子の見ていた風景は、

暖かく、懐かしく、そして力強いものでした。

桃子の目で選んだ、大好きなものに囲まれて、

あなたを暖かく見守ってくれる素敵なお友達に囲まれて、

幸せに暮らしていてくれたんだなと思えて来ました。

 

45年という生涯は、

この令和の時代においては、一見、短い気もしますが、

その長短は実は大した問題ではないと考えています。

その中に凝縮された悲しみや苦しみや喜び、

そして愛をしっかりと感じて生きていたのだから、

それはすてきな生涯だったと思います。ね。ももちゃん。

 

桃子に先に逝かれてしまって、

子分なしの親分になってしまった私ですが、

あの世であの子が待っていてくれると思うと、

なんだか、私が逝くときは、怖くないような気がします。

 

その時は、たぶん、親分お疲れ様です、へへ、

といたずらっ子っぽく笑って迎えてくれる気がします。

 

しばらくは、町で頭にお団子を載せている人を見たら、

あ、桃子ってあなたの影を探す日々となるでしょう。

気持ちがまだ全然追い付きません。

あんたが紡ぎ出す作品を、もう少し見たかった。

私の自慢のいとこ、ずっと忘れないからね。

 

私たちはしばらくこの世で暮らしますので、

どうか空から、

そのほんわかとしたまなざしで、

私たちを見守っていてください。

 

 

 

死んでしまうと、才能も消えてしまうのよね。。。

まだまだ悪夢の中ですー

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