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普門院だより~アメブロ版~

岡山県岡山市東区の普門院というお寺の

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皆様、こんにちは。

 

 今日は冬に逆戻りの寒い一日でしたね~。

 

 今、室内でも暖房を使っています。

 

 さて、今日はお彼岸の中日ということで、久しぶりに宗教ネタ? でお話し

 

 させて戴きたいと思います。

 

 

この世の中で一番尊いものは何ですか?

 

 何だか私の好きな韓流時代劇の揀擇(カンテクー王妃選考試験)に出てくる問題のようです💦

 

 これは大変奥の深い問題であって、実は「これが絶対、正しい」という答えは

 

 恐らく存在しないのではないでしょうか。

 

 例えば、アメブロの投稿ネタに「愛とお金のどちらが大切か」というものがありますが、

 

 二択のこの問いかけに対してさえ、なかなか選べない人は多いと思います。

 

 常識的な回答は「愛」ではありますが、現実問題として、自分が金銭的に困窮している時、

 

 他人のことにまで気を回す余裕はありませんよね。

 

 ですから、たぶん、正しいのは「愛は大切だけれども、お金がないと人に優しくはできないから、

 

 どちらも大切」ということになるのでしょう。

 

 であったとしても、やはり、この世で最も尊いのは「無償の愛」だと考えます。

 

 「お金」がないと優しくなれませんが、お金が無くとも

 

 優しくなれるときも人はあるのです。

 

 

 親は我が子には見返りを求めません。親の愛は唯一、お金がなくとも実現可能なものです。

 

 

 少しその話とはズレてしまいますが、、、

 

 つい最近、こんな出来事がありました。私事で大変恐縮ではありますが、

 

 良かったら、聞いてくださいね。

 

 私には高齢の母がいます。明後日、89歳の誕生日を迎えます。

 

 実は、母は持病というものが一つもありません。

 

 従って、常時服用している薬もないのです。

 

 90歳近い高齢で、これはちょっと奇跡的です。

 

 この歳になれば、どんなに元気に見える人でも薬の一つや二つは服用しているものです。

 

 一方で、母のたった一人の子である私は、母が羨ましいくらいです。

 

 母子といえども、その点は似ていません。

 

 本音を言うと、似たかったですー笑

 

 

病は気から。健全な魂は健全な肉体に宿る。

 

 あまりにも有名な諺ですね。

 

 母はこれを地でゆくような人です。今までにも何故、母がこの歳まで大きな病気もせずに

 

 健康そのものなのか、自分なりに考えてみました。

 

 導き出されたのは「気持ちの持ちようが私とは違う」という結論でした。

 

 私は小さなことにいちいちクヨクヨします。加えて心配性です。

 

 まだ起きてもいない未来のことをあれこれと先まで考えて心配してしまうのです。

 

 多少の心配は誰でも感じるものでしょうが、恥ずかしながら、いささか度が過ぎるくらいの

 

 心配性なのです。

 

 一方で、母はまさに私とは真逆です。

 

 小さなことには拘りません。母いわく

 

 ー気むずかしい義両親に仕えた若い頃、いちいち苦労を気にしていたら身が持たなかった。

 

 そうです。

 

 確かに、それはあるだろうと納得はできるのですが、けして、それだけではないと思います。

 

 元々の性格があるのは間違いありません。

 

 私なら、気むずかしい義両親に言われたことをすべて気にして

 

 精神鬱になってしまっていたかもしれません。

 

 母は多少のことは跳ね返すだけの強い精神力の持ち主なのだと思います。

 

 また、思考の切り替えも早いのでしょう。

 

 それは同居しているので、よく判ります。

 

 悩んでも意味のないことをいつまでも引きずらない。

 

 見事なくらいに、切り替えの早い人です。

 

 なので、母を見ていると、健康で長生きするには本当に気持ちの持ち方は

 

 大切なのだなぁと思います。

 

 そこまで理解していながら、やはり、私には母のようには生きられません。

 

 どうしても生まれ持った性格が違うので、仕方の無いことかもしれませんね。

 

 母は住職なので、毎朝夕と本堂へ勤行にいきます。

 

 しかし、元気といっても年が年です。

 

 あまりに本堂からの帰りが遅いと、心配になりますから

 

 そうっと様子を確かめにいきます。

 

 知らない間に倒れていたり、転んでいたりして帰ってこられないかもしれないからです。

 

 ある日、やはり母が朝勤に行って、なかなか帰っきませんでした。

 

 しかし、親不孝者の私は、自分のしていることに気を取られるあまり

 

 母の様子を見にゆくのを忘れていました。

 

 ただ、別の用事で本堂に行くことはありました。

 

 すると、私を見た母がニコリとして言うのです。

 

 ーらび子、私を心配して見にきてくれたんじゃろう。

 

 瞬間、私は穴があったら入りたい想いでした。

 

 母の帰りが遅いことなんて、実はこの時、すっかり忘れてしまっていました。

 

 しかし、人の善い母は良いように解釈してくれていたのですね。

 

 その時、私は老いた母の向こうに、清らかに咲く蓮の花を見たような気がしました。

 

 自分の母親に対して娘が言う言葉ですから、話半分に聞いて下さって構いません。

 

 しかし、私自身は本当にそのように感じました。

 

 そこには、何の掛け値もなく実の娘である私に全幅の信頼を寄せてくれている、

 

 或いは平素から他人の腹の底を疑うことのない母の姿がありました。

 

 母も人間ですし、歳ですから、けして良いところばかりではありません。

 

 最近は以前からすれば、随分と気も短くなりました。

 

 口を開けば、かなり辛辣なキツい言葉がポンポン飛び出します。

 

 それでも、若い頃から他人の善意を疑うことのない母らしさは

 

 少しも変わりません。

 

 本当に心のきれいな人だと思うことは、しょっちゅうです。

 

 ☆小さなことにクヨクヨしない。

 

 ☆他人の善意を信じる。

 

 簡単なようで、実はなかなか難しいことだと思います。

 

 何だか実母の自慢話になってしまったようですが、

 

 実のところ、娘の私は母の足下にも寄れないような人間です。

 

 すぐに

 

 ーあの人は口ではああ言ってるけど、腹の底では何を考えているか判らない。

 

 と、相手を疑ってしまいます。

 

 その挙げ句、悶々と一人で思い悩むことになります。

 

 生まれ持った性格を変えるのは相当に難しいことですが、

 

 母の生き方を少しでも見習えたらと思う今日この頃です。

 

                              合 掌