黒岳~破風山~新道峠~不逢山~大石峠 富士山麓登山日記(19-2)心は、いくらでも大きくなれる | ラケットちゃんのつぶやき

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ブルセラコスチュームで、あちらこちらに出かけてます。
最近は、主に富士山麓の山に登ったときの、雄大な富士山と、自身の写真をつけてます。
ブルセラアイドルの夢を見ながら、日常の現実に対するいろんな思いを綴ります。

 


 前の記事の続きです。

 このあと、黒岳展望台を10時に出発し、黒岳山頂に引き返し、再び、すずらん峠に向かって、降りていきました。
 富士山を南にしながら、西へ続く御坂山系の尾根をたどります。

 

10時20分、すずらん峠です。

 冬枯れの自然林なので、大石の地区が少し展望できます。
夏になると葉が生い茂って見えなくなります。

 


 


10時55分、出発。

11時5分、破風山です。
 平坦な山頂ですが、樹木が生い茂って、周囲の展望は、ほとんどありません。
樹木の間から、富士山の頭の部分が、見えています。
雲がやってきてます。

 

 あ、さっきまで見えていたのに、雲が隠してしまいました。
けしからん

 これから、雲がうるさくなってきます。
 実のところ、山麓の山の山頂から富士山が見えるのは、晴れの日でも、そんなに多くはなく、見えても多くは朝方です。
 太陽が高くなってくると、冬の乾燥期以外は、空が霞んできて、雲が煩くなってくるのがほとんどなのです。
 だから、登ってみて、運良く富士山が見えたら、なにはともあれ、富士山を撮影します。

 

 

 

11時35分、破風山から新道峠にかけては、ササと樹木に覆われていて、ほとんど展望はありませんが、ときに開けたところがあって、富士山が見えます。
 適宜、ザックをおろして、セルフ撮影しながら、ゆっくりと進んで行きました。

 

11時40分、私が見つけられた第一の穴場です。

 

 

11時55分、第二の穴場です。

 

 

12時10分、第三の穴場です。

 

 

12時35分、第四には、絶景の展望地点です。

 

 

ここは、以前にも、ブログで紹介しました。
 この時点では、マイナーでしたが、今では、笛吹市が、すずらん祭りとともに観光名所にあげ、ここを第二展望台と称し、富士山のライブカメラができています。
 また、最近、来たときには、富士山をバックに、セルフ撮影するための、撮影台も、設置されていました。 ここまでやったら、大自然の趣は薄くなっちゃいますねえ。
いやはや・・・

 

 

13時15分、第五の展望地点です。
ここは、第一展望台と言われています。

 

 

13時30分、新道峠に着きました。

 

 

南は、河口湖湖畔、大石へ降りる、多少険しい道があります。
北へは、舗装された水ヶ沢林道へ、たった5分で降りてぬける道があります。
まあ、エスケープルートとでも言いましょうか。
だから、小さな親子連れも多いし、時折、ゴミがおちているのですねえ。
いやはや・・・

 

13時45分、途中の岩場です。
河口湖大橋が見えます。

 

14時、中藤山(なかっとうやま)に着きました。
背の高い樹木の間から、富士山が見えます。

 

 

14時30分、少し開けた地点です。

 

15時20分、少し離れた展望地です。

 

 

更に、進みます。

 

 

15時55分、不逢山(あわずやま)です。

 

 

16時5分、大石峠に着きました。

 


ここは、広くて、眺めも良く、キャンプにぴったりですねえ。
ただし、高度1500mぐらいですけど。

 

 

広場のあちらこちらで、休みました。

 

 

16時40分、大石峠を出発、大石へむけて降りていきます。

 

17時30分、もう少しのところで、
真っ直ぐ続くように見える道に、折れた木が横たわっています。

 

 

 状況を良く見ると、木は道に直角に横たわっていて、考えてみたら、自然の為すワザとしては不自然な感じがしますねえ。

 

 

 以前に、このルートを通った時、この木をまたいで直進して、林道を真下に見て、藪をこぐことになって、痛い目をみました。
 よく見ると、左に折り返す道がありますねえ。
これが、正しい登山道でした。

 

 

17時35分、登山口に降りました。

 

 

 

17時50分、大石の堰堤広場です。

 

 

バスが来るまで40分ぐらいあります。
少し休憩。

 

18時35分ぐらいに、富士山行きバスに乗り、新宿へは、23時ごろに着きました。

 

・・・

 

 以前に、都会の雑踏から、しばし逃避して、3泊4日の計画で、富士山の登山を計画したことがあった。
2か月前から綿密な計画を立てていた。

午後から休みをもらって、といっても午前の外来は午後2時まで続き、自宅を出るのは夕方になったが。
 富士市のビジネスホテルに着いて、深夜に、さあ出発するという時に、登山靴を忘れてきたことに気がついた。
 自宅を出発する前に、何度もザックの中の荷物を確認したが、履いてきているのはビジネスシューズだった。グループの仲間には、先に行ってもらい、当然に、私の登山計画はとん挫した。

 

 99%を実現していても、致命的な1%のミスを防ぐには、どうしたらいいのだろうか。
普段から120%~150%の力を出し切っていて、疲れがたまり、注意が至らなかったのであろう。
 もう少し、いやもっと、余裕=無駄をもっていくべきなんだろう。
 老化現象もじわりじわりと進んでいて、忘れやすくなっているのは確かだ。

 

 自分の身は、もうアラフォーになっている。
注意深く観察して自身の肉体を20代のときと比べると、明らかに代謝が落ちている。

日常的に、死と隣り合わせにいる患者を診ながら、元気な患者にも、こんなことを、よく言っている。


「生きとし生けるものは、皆、衰えて土に帰る。

気をつけていてもいなくても、毎日毎日、その日に確実に進んでいる。

普段できていることが、この次もできる保証なんてない。
今日できたことが、明日必ずできる保証はない。

今日が、人生において、一番良い日である。

みんな、車やスマホ、コンビニ、電気・水道といった、便利な社会環境に住んでいて、それが当たり前のように生きているが、

今日、目覚めたのは、とても有難いことなのである。」


考えてみれば、明日をも知れぬ命である。

 

 

 最近の、日本や世界情勢を見て、思う。

 

 互いに励ましあい支え合っていく世界は「喜び」に満ちていく。
「他と比べて」一喜一憂する生き方は、最終的には必ず行き詰ってしまう。

 

 自分自身の心の中だけでなく、組織や家族、国や世界についても当てはまる。
最近に限らず、日本や世界の経済状況、テロや地域紛争などをみても、明らかであろう。
 身近にある、ある組織の戦略会議では、みんな120%~150%の力を出し切っていて、「同じ仲間じゃあないか」という割には、「憂」の一字のみをループしているようだが、
どこであれ、組織といっても、国の縮図。
 まわりをよく見てみると、国会の有様から、身近な組織にいたるまで、醜い構成員や場面など、良い部分も悪い部分も、規模が大きくても小さくても、共通点がそろっている。
いい人や良い行いがある反面、ずるい人・汚い行いもそろってるねえ。

 

 自分の心の中でも、程度の差はあれ、同じだろう。
 他人や環境を見る目で、いつも自分自身を見ている。
 自分を見る目で、他人も見ている。
 綺麗な自分と汚い自分、
 あるべき理想と、醜い現実。


 その見る目が鋭ければ鋭いほど、他人にも自分にも厳しくなっていく。
 そこで、動物に近い人や、知識やスキルを持っていてもワル知恵や猿知恵がある人ほど、心の中では自分(の良心)をごまかし、言動においても、人が見ていない範囲では、ずるく汚い行為をしている。
これって、生物が本能的に生き延びる為の防衛反応である。

 

 正直は人間としての花・・・
といっても、その鋭利な目は、鋭利であればあるほど、使い方によっては、自分も他人も傷つけてしまう。
 だから、正直さ・勤勉さ・努力や、頑張るっていっても、それを、価値を生み出す方へ導く「智慧」が必要なんだろう。
 自分が、うつ病になったのも、自業自得。
 つまり、環境の変化に対応する「智慧」が、相対的に不足していた。
人としての鍛錬が、自分なりに、いまひとつ必要な場面であろう。
だから、
「じっと堪えていまにみろ。
まあ、必ず立ち直って、その何十倍も、飛躍してやる」って、思い続けてきた。

 

 

 人はみな、その人でなければならない使命がある。
自分は他人になることもできないし、他人も自分に変わることはできない。
自分は自分らしく、花を咲かせていけばいいんだ。

 

 比べるなら、他人や他の組織じゃなくて、自分の過去と現在を比べ、大きくなっているか。
以前よりも今
昨日よりも今日
去年よりも今年

そして、
今よりも、次の瞬間、
今日よりも明日
今年よりも来年・・・
という姿勢こそ、充実した人生の生き方なのだろう。

 

 金やモノや財産による満足は、やがて消えてなくなる。
これは、あくまで満足(一時的)であって、真の幸福ではない。
 体だって、年をとって衰え、やがて死をむかえる。
だから、これらにとらわれながらの生き方の連続は、やっぱり空しい。

 

 心は、いくらでも大きくなれる。
深く、優しく、強くなれる。
限りなく豊かになれる。

 

 同じ時・同じ場所を共有して生きているんだから、損得勘定なしに、互いに支え合い共感しあってこそ、共に豊かに大きく成長できるのではないだろうか。

 残念ながら、多くの人の生き方においても、多くの組織や国、世界のあり方においても、そのような、価値的な時間空間が少ない。
 おろそかにされてきたのだろう
 目先にとらわれて、見失ってきたのだろう。
 しかし、だからこそ、価値的な時間空間を創造することに、素晴らしさがある。

 

 心は見えないっていうけど、隠したって必ず反映する。
医者や看護師が足らないっていっても、現在の姿・状態が、それまでのあり方すべての結果なんだろう。
 目先の損得勘定だけに終始して、価値的な時間空間の積み重ねを怠ってきた結果・・・

だが、先に挙げたことは理想で、現実に行うのは、疲れる。
 なんてったって、前世紀の、高度経済成長やバブルという、美味しかった過去の経験に、硬く縛られているからねえ。
 組織だけでなく、個人から、国、世界レベルでも、行き詰まっているとも見える。

 

 

 愚者は経験にとらわれ、賢者は歴史に学ぶっていわれる。
「時は金なり」と、物の豊かさや目先の短期的時間的効率のみを優先して追求してきたのが前世紀である。
 結果として物質的に豊かになり便利になって、文明の利器に囲まれ、時間的にも効率が良くなっていても、本当に幸せと感じる人は少ない。

 

単なる満足を、幸福と見誤っていないか?!

 

 有限の資源を貪り尽くす右肩上がりの幻想から、多くの人や組織が、いまだに目覚めていないのが世界中の様相であろう。

 

 今世紀は、共存・共生の世紀である。
損得勘定なしに、互いに支え合い共感しあうことの中にのみ、その解決の糸口がある。
そうでないと、戦争や環境破壊も含めて、人類の存続の危機を克服できないだろう。
家族や小さな組織を始め、地域や国のあり方までも、みんな共通していることである。

 

歴史にも、武田節のように、
人は石垣、人は城
情けは味方 仇は敵
と。

 

 

 目先の短期的効率のみを追求して、労働者という人間までディスポのように扱う風潮が蔓延し、国もそれを後押ししているようだ。
 しかし、帝国主義・共産主義が滅亡したように、組織の構成員一人ひとりを大切にできないような組織は、やがて滅亡する運命にある。

 一方、個人という単位で、あるいは家族という単位で、誇らしい自分も嫌な自分も、好きな相手や嫌いな相手も、損得勘定なしに、互いに支え合い共感し、心の宝を蓄積していれば、個人や家族が崩壊することは決してありえない。
 むしろ、崩壊した周りから、また新たな組織が生まれたり、より良い組織から迎えられることであろう。
 更に言えば、小さな組織を始め、地域や国のあり方までも、この原理は、やっぱりみんな共通しているといえる。
この際には、富は減少し、組織は縮小し統合することも、歴史が証明している。

 

 同じ時・同じ場所を生きているんだから、
「喜び」に満ちた、互いに励ましあい支え合っていく世界を、自分の心の中にも、家族や周りの組織の中にも、培っていきたい。

 この美しい地球を食い尽す前に、なんとしても、実現すべきであろう。
報復の連鎖を断ち切り、富を貪るのを止めて、共感・共生・大自然への回帰を。

 

 

 今の流れが続くと、50億年といわれる残された地球の寿命の、ほとんどを残して、人類は滅亡するだろう。
 進化論からみると、その後は、次の進化した新生物が誕生して繁栄することになる。
その新生物が、文化的であったなら、考古学的研究に、十分堪えうる価値のあるものを、書き残していきたい。

 

 人類の中にも、一部の叡智が輝いている。
日蓮大聖人が顕した仏法に、その法則がある。
SGI(創価学会インターナショナル)は、世界192ヶ国に、それを広めている。

 この美しい地球を食い尽す前に、なんとしても、実現すべきであろう。
報復の連鎖を断ち切り、富を貪るのを止めて、共感・共生・大自然への回帰を。

 


確か、以前にも記事にアップしたけど、その答えは、ちゃんとある。・・・


衆生見劫尽 :衆生が、この世界が終わり
大火所焼時 :大いなる炎に焼かれると見る時も、
我此土安穏 :私の住む、仏の世界は安穏であり
天人常充満 :そこでは、天人が常に充満し、

園林諸堂閣 :園林や諸の堂閣は、
種種宝荘厳 :種種の宝をもって荘厳し、
宝樹多華果 :宝樹・華・果が多くて、
衆生所遊楽 :衆生が遊び楽しむ所なのだ。


 以上の「・・・私の住む、仏の世界は安穏であり、・・・衆生が遊び楽しむ所なのだ。・・・」の部分について、
鎌倉時代で、日蓮大聖人が、門下であるに四条金吾にあてたお手紙があって、とても感動的である。
 「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、」の部分が、よくとりあげられている有名な部分である。
 四条金吾は、武士でありながら医術をもち、主君に随って敵を殺す反面、人を治療する立場でもあった。
(末法においては、南無妙法蓮華経と唱えるところが、仏の住む世界であることはいうまでもない。)
 仏は少病少悩というが、病や悩みが無いことではない。
「少し」ということは、仏の徳がはるかに大きいことによって、相対的に「少し」となる。
仏にも病や悩みがある。苦しみも楽しみもある。


 では、仏はどうやって遊楽するのか。
つまり、
苦しみは、実はこれが、自ら選んだ苦しみなのだと悟り、
楽しみには、まさにこれが、自ら得た大いなる楽しみだと見出して、
苦しくても楽しくても、どんなことがあっても南無妙法蓮華経と唱えきっていくことが、「衆生所遊楽」という、仏の人生であることを言われている。

 このお手紙を与えられた四条金吾が、人を治療する反面、主君に随って敵を殺す立場でもあったことが、自分自身のおかれた境遇に、なんとなく似ているようで重なって、なんともいえずありがたく思うお手紙である。


「自受法楽」
そうだ、すべてを自ら楽しんでいくのが、仏というんだ。
苦しみも楽しみも、
いやなこともうれしいことも、
失敗も成功も、
現実の起こることすべてを、自ら楽しんでいく・・・
自ら、望んで受け、楽しむ。
仏法の眼、つまり仏眼で見たら、こんな困難なことも、自ら選んでいる・・・のだから、
だから、自ら楽しんでいかなきゃあ。
何一つ、無駄なことはないはずなんだ。

 


一切衆生.南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、
此の文.あに自受法楽にあらずや、
衆生のうちに貴殿もれ給うべきや、
所とは一閻浮提なり日本国は閻浮提の内なり、
遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや、
法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし
現世安穏・後生善処とは是なり、
ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、
賢人・聖人も此の事はのがれず、
ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給へ、
苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、
これあに自受法楽にあらずや、
いよいよ強盛の信力をいたし給へ、恐恐謹言。
建治二年丙子六月二十七日 日蓮花押
四条金吾殿御返事・・・・・(日蓮大聖人御書全集)

 


一切衆生(生きとし生けるものすべて)にとって、南無妙法蓮華経と唱える以外に遊楽はありません。
法華経如来受量品第十六の自我偈に「・・・衆生所遊楽(衆生が遊び楽しむ所である)」と記されています。
この文こそ、「自受法楽」のことを述べているのです。
「衆生」の中に、あなたがいらっしゃらないことがあるでしょうか。
また「所」とは、ひとつの全宇宙を示していて、日本国も、この中にあります。
「遊楽」とは、すなわち、私たちは、その色心(肉体と精神)・依報(環境)・正報(身心)ともに(すべてが)、一念三千の当体であり、
「自受用身の仏」であることに、ほかならないからでしょう。(だから遊楽すると記されているのです)
したがって、法華経をたもつ以外に遊楽はありません。
法華経薬薬喩品第五に「現世は安穏であり、後には善い処に生まれる」と記されているのは、このことをいうのです。
ただ大切なことは、世間の数々の「難」がおこっても、動揺し流されてはいけません。
賢人や聖人でも、この「難」は避けられないのです。
だから難があっても、ただ奥様と酒を飲みかわして、南無妙法蓮華経と唱えていってください。
苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦しくても楽しくても南無妙法蓮華経と唱えきっていってください。
これこそが、「自受法楽」ではないでしょうか。
ますます強盛な信心を続けてください。恐恐謹言。
建治二年丙子六月二十七日 日蓮花押
四条金吾殿御返事・・・・・(私風現代語訳)