格差を個性や使命へ
平成26年、6月1日(日)
前の記事からの続きです。
雪頭ヶ岳山頂のツツジと富士山を、十分楽しんだ私は、昼食の後、鬼ヶ岳へ向かいました。
第一のピークです。
ここを越え、第二の岩場にかかった梯子を登ったところの、第二のピークです。
その後まもなく、鬼ヶ岳山頂に着きました。
青空が広がっています。
この大岩にのぼってみました。
360度のパノラマです。
周りの樹木も、若葉が萌え萌えとしてきています。
いい匂いです。
いつもの、鬼の角岩の岩場から、ピース。
大岩に上ってみました。
後ろにツツジの花が咲いています。
鬼の角岩と富士山の間に入って、ピース。
この左側の、鬼の角岩に登ったり、抱っこしたり、座ったり、ねそべったり。
大岩のとなりでピースです。
この大岩の反対側に、萌え萌えとした若葉に混じって、ツツジが咲いています。
大岩の中に咲いていた桜は、緑の若葉でいっぱいです。
大岩をまたいだり寝そべったり・・・
他にも、好天の中、数人の登山者が来ました。
参議院選挙が2日先の、7月10日に迫っている。
選挙戦も終盤となっている。
アベノミクスの成果や、憲法改正の是非、医療・福祉のありかたが問われている。
未曾有の少子高齢化社会に直面し、増え続ける高齢者に加えて、選挙年齢も18歳以上に引き下げられ、新たな若者が加わった初めての選挙になる。
現在浪人中の私の息子も期日前投票を済ませてきた。
国民の世論で重視されていることは、順に医療・福祉、経済、憲法改正、原発問題・・・となっているようだ。
いずれも重要な課題であるが、経済を最優先にし、公約に掲げていた消費税の引き上げを3回も見送った自公連立・安倍政権の是非が問われている。
加えて、昨日、小池百合子氏が、都知事選に、自民党推薦なしで正式出馬を表明し、自民党内で、さらなる波紋が広がっている。
都民としての私は、 パラシュートなしに出馬した彼女が、知事になったら東京都議会の解散も示唆していて、期待してはいるが、少し複雑な思いである。
未曾有の少子高齢化社会を迎えつつある中で、医療費・介護費の増大、少子化対策は、待ったなしの局面である。
いつぞや自公政権の時、「100年あんしん年金プラン」と言われたが、年金への信頼も年とともに崩壊しつつある。
その国の規模や実情に合った制度を構築しなおす局面であると私は思う。
前世期に、老人医療を無料化した時代があった。
1973年に高齢者医療費が無料化された。
その後、平均寿命は延び続けたが、 国民医療費はうなぎのぼりの一方、 病院が、軽症重傷を問わず老人患者であふれかえり、3時間待ちの3分診療と揶揄され、時間を持て余した孤独な老人たちのふれあいの場となった。
そもそも1961年に国民皆保険が実現したときは、労働者の組合の健康保険では、医療費の本人負担が無料、家族が5割負担であったが、 高齢者医療費無料化後の健保組合の財政悪化で、保険制度が維持困難となって、保険本人の医療費も 順次、1割、2割負担から3割負担となった(1984年)。
1983年2月、やっと老人医療費が有料化された。(老人保健法制定(1982年8月)
その後も、我が国の医療・行政などの発達、国民皆保険制度の維持、介護保険制度の導入、生活保護の増加により、医療格差・経済格差が縮小されることによって、平均寿命が延び続けた。
今世紀に入っては、やや頭打ちとなっているが、女性85歳、男性80歳と、世界一となっている。
しかしながら、半面、40兆円にのぼる国民医療費のほぼ半分は、65歳以上の高齢者医療費であり、組合健保も、老人医療拠出金が財政悪化・財政赤字の最大の要因となっている。
高齢者負担が1割といっても、のこりの9割が国民負担(現役世代の保険料と税金)なのである。
無料や1割負担の医療費や介護保険料が負担で苦しいという高齢者の声も、気持ちとしては分かる。
とはいっても、現実は、自分以外の「他人(他の多くの国民一人ひとり)」が、その残りの多くを払っているわけである。
意地悪な表現でいえば、高齢者は、自分にかかった費用のうち、自分が負担する額の9倍もの医療費を、他人に押し付けていることになる。
高齢者医療費が無料化された後におこったモラルハザード(本来の意味ではないもの)や矛盾と同じような現象が、現在でも多くの医療現場で見られる。
軽症者による救急車の利用、コンビニ受診などである。
小児医療を無料化すべきという、現役世代の声も切実ではある。
しかし、実際に、補助金などによって、実質的にそうなっている自治体・地域には、軽症者による救急車の利用、夜間・時間外コンビニ受診が多く、小児科医療が崩壊寸前のところも少なくないだろう。
一億総活躍社会ともなれば、私のような医療従事者は、隠居できないことになってしまい、おそらくストレスによって早死にする運命なのだろう。
医療現場や介護現場も、人手不足・過重労働のわりに、所得は少なく、厳しい。
介護福祉士も、 労働のわりに給料が安く 、自身の親の介護のために仕事を辞めざるをえない人も多くいる。
子育て世代においての保育所不足・保育所不足も深刻な実態が明らかになっている。
もともと保育士自身の給料が安く(全産業平均より10万円ぐらい安い)、なり手が少ないうえに過酷な労働条件で、最近は事故や訴訟も多く、責任が増大している。
保育士自身の子供も、保育所にあずけられず、自身の給料で保育料を払ったら、暮らしが成り立っていかないなどの声も聞く。
女性の生涯出生率は史上最悪のレベルである。
我が国の人口は1億人を切って、現役世代の2人で、一人の高齢者を支えていかなければならない時代が、そう遠くない先にやってくる。
男女共同参画社会や一億総活躍社会を進めていく一方で、個人個人の生き方レベルでも、子育てや介護と両立(選択)や、働き方、社会参加のあり方そのものが、国民全体に問われているといえまいか。
本日発表された日銀会議では、景気は回復しつつあるということだそうだ。
確かに、大企業の業績については回復しつつあるだろう。
しかし、そこで働く労働者の賃金は、名目では上昇しているが、物価上昇を加味した実質賃金は横ばい。
加えて、健康保険料や年金額は増えているため、可処分所得の実の部分は減少しているのではないだろうか。
名目の金額に騙されてはいけない。
問われるべきことは、現実に働いて生んだ価値を、現実の価値に交換した場合、実際に増えているかどうかなのだ。
理屈では、利害・善悪・美醜という価値判断は、コインの表裏一体の関係であり、片方が存在しないともう片方も存在しない。
損得勘定については、同じ額であっても、得した時よりも損をしたほうが大きく感じる。
これが、損得「感情」というものだ。(ついつい出てしまった、最近TVドラマではやりの、親父ギャグのつもり・・・)
加えて、人間の損得「感情」は、自分自身の損害のほうが、他人の損害よりも敏感であり、他人の利益のほうが自分の利益よりも大きく感じる。
他人の芝生は青くみえるという諺もあるくらいである。
さらに言うと、他人の善を評価することに苦手で鈍感であり、自分の不正よりも他人の不正のほうが処罰感情が敏感で激しい。
新聞やTV番組、インターネットで流れる時間や内容も、他人や社会を評価することよりも、批判・非難することが圧倒的に多い。
それを受け取る側(視聴者・購買者など)も、他人や社会を評価することよりも、批判・非難することが圧倒的に多い。
あるときには衝撃的な内容を暴露し、ある時には面白おかしく、時には意外性そのものをねらい、批判・非難する記事が、好まれ売れるのである。
だから、裏付けの曖昧な、客観的事実にほど遠い、思い込みに類する記事がはびこる。
そのほうがお金になるからであろう。
まさに、「他人の不幸は蜜の味」である。
民主主義といっても、衆愚政治であれば、古代ギリシャの歴史をあげるまでもなく、オストラシズム・ポピュリズムなどの愚が繰り返されることとなるだろう。
ちなみに、末法という今の時代は、万人が、自分勝手な主張をしあい、罪のない者に濡れ衣をきせ、争い事が絶えず、正しい法が分からなくなると、仏法では約3千年も前から説かれている。
記事を発信する人、またはそれにかかわる人は、それを職業としている人が多い。
だから、発信する内容に対する責任は重く、少しの傾向の歪みであっても、反価値(ハンカチ)的な内容を長期間続けることにより、自身の宿業へ容赦なく反映していくであろう。
これが、仏法(大自然の摂理)に説かれている、因果応報である。
以前の記事にも挙げたが、日蓮大聖人は、次のように仰せである。
高山に登る者は必ず下り
我人を軽しめば 還て我身人に軽易せられん
形状端厳をそしれば醜陋の報いを得
人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる
持戒尊貴を笑へば 貧賎の家に生ず
正法の家をそしれば邪見の家に生ず
善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ
是は常の因果の定れる法なり、 ・・・(佐渡御書、日蓮大聖人御書全集P960)
高い山に登る者は必ず下る。
人を軽蔑すれば、かえって人に軽蔑される。
人の容姿をそしれば、醜く生まれ、
人の衣服や食べものを奪えば、餓鬼(無限に物を獲得しても満足できない状態)となる。
戒を持つ尊貴な人を笑えば、貧賎の家に生まれる。
正法を謗れば、邪見の家に生まれる。
十善戒や五戒を持つ人を笑えば、国土の民となって戦争に遇うのである。
これらは、常にある、因果の定まった法則である。 ・・・(私風現代語訳)
個人においても集団においても、現状を追認するのは容易く、改革するのは苦痛とリスクを伴う。
しかし、変化に適切に対応し、改革をしていかなければ、全体としては生き残っていけない。
生きとし生けるもの(一切衆生)は、すべて、自然選択に耐えていかなければならないのだ。
諸行無常・因果応報、栄枯盛衰・盛者必衰、生老病死・四苦八苦・・・
「是は常の因果の定れる法なり」なのである。
今世紀に入ってからは、先進国の経済は頭打ちのようであり、一部の開発途上国を除いて、今後の大きな経済成長は困難であると見える。
その上、経済学そのものの理論からしても、 限界効用逓減の法則にも見られるように、今後の大きな経済成長が、そのまま満足のいくような幸福には、決して結びついてはいかないだろう。
EU離脱を決めた英国国民が、以後における経済的な犠牲を払っても選択したものとは何か。
多くのエコノミストやジャーナリズムは、その実態を把握できていない。
少なくとも、名誉革命を成し遂げた由緒ある誇り高い人々が、総じてモノやカネを選んだのではないことだけは確かである。
我が国は、それとは対照的に、経済成長・自由貿易のため、規制を緩和しTPPに参加を表明し、
ある人は、外国へ自動車を安く売る引き換えに、安く農作物を輸入しなければならないという。
その上、自国の通貨「円」を乱発して安売りし、日銀もマイナス金利へ誘導している。
その効果も曖昧なまま、 英国のEU離脱のあおりを受けて、あっさり円高株安の流れになっている。
国内の借金は総額約1200兆円にのぼり、名目GDPの約2.4倍、国家予算の約10年分に当たる。
追加の大胆な金融緩和をするようだが、効果が疑問視されているようだ。
しかし、この国債の約9割は、日本国民(日本の金融機関や個人投資家など)が安心して買っていることらしいから、マイナス金利(価格は上昇)であっても容認され、どこかの国のようにデフォルトにはならないだろうと見る経済学者もいる。
このことについても、また機会があればふれてみたい。
ところで、仏法の目から見て、私は、不幸を感じるきっかけ(縁)になるのは、先進国においては、水準じゃあなくて、格差であると見ている。
つまり、グローバルな(世界的規模で見た)水準ではなく、身近に周りに住んでいる人と自分との間における相対的格差である。
実際に私たちは、世界で貧しい国々の人たちの現状を知り、彼らに比べて自分たちが富んでることを知っているが、それで幸せを感じるわけではないだろう。
例えば、所得においては所得水準ではなく、所得格差。
財産においては、資産水準ではなく、資産格差。もてるものと持たざる者の格差。
教育においては教育水準ではなく、教育格差、智的格差、公立や私立の差、状況を洞察し克服する智慧の格差。
健康においても健康水準ではなく、健康格差。などといえよう。
ところで、どうして、その格差を、使命とか、個性であるとか、誇りであるとかと受け入れられないのだろうか。
そうできれば、世の中はもっと違ってみえてくるはずである。
先に挙げたように、同じ価値ならば、周りのほうが良く見えて、自分のほうが劣って見えやすい。
仏法では、この生命の傾向性を、「修羅」と表して、見事に解明している。
修羅(しゅら、阿修羅(あしゅら))とは、常に他に勝とうとする境涯で、自身が他に劣っていることが許せない状態である。
常に周りの相対的比較に捉われ、自身が他に劣っていると不快で受け入れられず焦燥感を増し、虚飾・虚偽であっても省みず、自身を他よりも大きく見せようとする。
例えば、安易にブランドモノや高級品で身を固めた人に、時に見られたり、高い社会的権威や立場などにしがみつく人が、マスコミに実態を暴露され、失脚する惨めな姿は、枚挙にいとまがない。
生物の世界でも普通に見られることで、畜生界の境涯にも重なる。(畜生=生物)
ほとんどすべての場合、自身の満たされていない欲望が根底に存在するから、餓鬼界の生命境涯にも輪廻する。
そして、それらの、実現しない状態に捉われて苦痛を感じる=つまり、地獄界の境涯である。
仏法から見ると、不幸を感じるシステムは、この、地獄・餓鬼・畜生・修羅の生命境涯(この4つをふくめて、四悪諏という)を、一瞬一瞬回り回っていることなのである。
スマホやPCの液晶画面が、常に光っているように見えるが、実はい秒間60サイクルで点滅して、光(情報)を出しているように、一瞬一瞬巡り巡って、一定の状態を流れていく。
これを、輪廻(リインカネーション)という。
どうして、その格差を、己の使命とか、個性であるとかと受け入れられないのだろうか。
しかし、現実には、これは困難である。
実は、これが困難だからこそ、仏、菩薩の境涯の存在が説かれた。
日蓮大聖人の末法時代になって初めて、仏の境涯の確立する方法が表されたのである。
この方法である「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、いかなる境涯においても他者を救済する行動(菩薩の行動)を行い続けていくこと自体が、その格差を、己の使命としていく方法であり、あらゆる境涯において、その人ならではの、絶対的な幸福生活を送ることができるのである。
それを、日蓮大聖人の時代から受け継がれ、戦後の日本から急速に世界中の国々へ広宣流布への活動が展開されつつある。
実質的に、そのほとんどを担っているのが創価学会、創価学会インターナショナルの同志たちである。
次に、憲法改正の議論について、残っているが、六法全書では、目次のあと、最初に載せられているのが、日本国憲法である。
私は平成2年度版を持っているが、A5版の、P43からP50まで、わずか8ページしかない全文は、10分もあれば目を通せる。
とても理想的で、我が国が、世界に誇る内容であると思う。
まさに、世界一理想的な憲法だと思う。
教科書には、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義があり、三権分立(国会・内閣・裁判所)、三大義務も載っているが、あまり重視されていないように思われる条文もある。
論議の対象となっているのは、平和主義をうたう第9条であり、ざっくり言えば、武力を持つ自衛隊の存在が欺瞞となっていることである。
憲法第9条 [戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認]
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
以上を、普通に読めば、現実に武力を持っている自衛隊は、憲法違反じゃあないかとなる。
日本国民だけでなく、世界中の多くの人が、同じように感じるだろう。
現実に武力を持っていて、そのために国家予算の約5兆円を費やしている自衛隊が、憲法第9条第2項にいう「戦力」には当たらない組織と解釈している日本国政府見解は、苦しい言い逃れと言われても仕方がないようである。
日本を取り巻くアジア情勢は緊張し、自衛隊のスクランブルが毎日のように複数回行われているのを知れば、このまま悶々としている場合ではない。
私は、安保法案が強行採決された後、これに関連して次のように記事に書いておいた。
烏帽子岳~パノラマ台~中之倉(千円札の富士山撮影展望台)・・・富士山麓登山日記(8)
・・・つまり、差し迫った危機のある現実において、刀をもってはいけないというのではない。
今の時代では、武力をもってはいけないというのではない。
武力の真髄も妙法蓮華経から出ている。
つまり、いかなる情勢であっても、根本とすべきなのは、妙法蓮華経に説かれている「慈悲と智慧に基づいた行動」なのである。
自国の防衛の在り方だけにとどまらず、外交や世界平和維持への努力、経済や協力の在り方も含めて、それらの真髄も妙法蓮華経から出ているということである。
法華経の兵法を用いてそうすれば、「多くの余りある怨敵は、皆すべて摧滅する」のである。・・・
つまり、憲法の9条第三項として、自衛隊の意義を明確にし、武力保持の目的を平和維持と救済行動に限定することを明確に付加えるべきである。
そして、それを超える行動を誘うような解釈を伴う記載を一切すべきでない。
しかし、国民の三大義務について、はっきりと言える国民は少ないであろう。
納税の義務、勤労の義務、教育の義務である。
納税の義務は、いうまでもない。
収入や資産があれば申告して「自ら」納めなければならない。
これを、税金を「取られる」と思い込んでいる人が、あまりにも多い。
基本的人権を行使して、国民や市民としてのサービスを受け生活していくためには、そのコストとなる負担をしなければならないのは当然であろう。
これをごまかして逃れよう、少なくしようという輩が、・・・あ、万人の本音は、大なり小なり、負担は少ないに越したことはないと思っているのは確かだ。
脱税は犯罪である。
成人したら、すべての国民は、勤労の義務がある。
働くことは、権利でもあるが、義務でもあることは、案外と忘れられているようだ。
ちなみに、「児童は、これを酷使してはならない」とあるから、児童には、義務はないと解釈できそうである。
ニートやパラサイトシングルは、この義務を果たしていないといえようか。
成人したら、老後を迎えても、死ぬまでこの義務は課せられていると受け止められる。
教育の義務とは、自分自身が、その能力に応じて等しく教育を受ける権利があり、親になったら、子供に教育を受けさせる義務があるということである。
「その能力に応じて等しく」というのが、まさに理想的なところで、現実にはいろんな課題に直面している。
そして、前文の文末に、「・・・日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」とある。
つまり、憲法で記されている権利などは、多くの国民が当たり前と思っている「天賦」の内容ではなく、あくまで「理想と目的」であって、私たち国民はひとりひとり「全力をあげて」、達成することを誓い、努力しなければならないのである。
ちなみに、大日本帝国憲法が、日本国憲法のあと数ページ先に載っている。
第一条には、「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、主権は天皇おひとりである。議会・司法・会計の内容が規定され、臣民の権利(所有権、移動の自由、信教の自由、裁判権など)があるが、教育の権利・義務はなく、 安寧秩序をさまたげない「臣民タル義務」があり、 納税の義務とともに、「兵役」の義務を負うことが記載されている。
戦前戦後の歴史の中で、現憲法の価値を評価するうえで、また、私たち国民は、この憲法を護りながら、東西冷戦危機をはじめとする危機を乗り越えてきていることを評価する上で、さらに、今後の日本の将来、人類の展望について考えるうえで、大切なことを挙げておきました。
選挙結果を予測すれば、現政権が支持されていくようである。
戦後の長い歴史とともに、それなりの良好な秩序や治安、協調文化を保ちつつ、狭い国土に資源もない日本を、世界の先進国にまで成長させてきた自由民主党には、根強い支持がある。
日本は、 様々な社会問題を抱える資本主義国ではあるが、共産主義国のソ連が崩壊した後も、先進国の中では、最も所得格差が少なく、 近隣の共産主義国よりも平等の程度は高く、平均寿命も長い。
国民の実感は伴っていないが、この事実は、多くの疫学者や国連のデーターが示していることなのである。
この現実は、日本国民が、世界に誇るべきことであると思う。
しかし、共闘する野党にも、過半数にできるだけ迫ってほしいと思う。
そうでないと、現政権が暴走した場合、歯止めが利かなくなる。
そして、現実の泥の中に手を汚しながらも、地域の利益誘導ではなく国民全体の立場から、経済格差をはじめとするあらゆる格差の解消を目指し、福祉第一を結党精神とする、公明党の躍進を、日本の将来のために、 個人的には祈っている。
今世紀に入って公明党の現実路線は、理想とは程遠いものの、 社会の低所得者層の底上げや自民党の暴走を緩和するなど、野党でいたときよりも多くの実績をあげてきている。
日本の国を一個の人体に例えたら、主に保守系の党は筋肉と脂肪、野党は良心、中道政党は頭脳の役割を演じているようだ。
ヘッドハンティングなどや教授選などのように、有能な人材の育成や抜擢という観点からは、100頭の羊よりも一匹の狼を選ぶという視点が重要という。
しかし、多くの人々を幸せに導くような、優れた為政者や指導者、教育者は、一人の有能者を100歩前進させることよりも、100人の人をすべて一歩ずつ前進させる視点をもつものだ。
国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん
汝須く一身の安堵を思わば 先ず四表の静謐を祷らん者か・・・・・(立正安国論、日蓮大聖人御書全集)
国が滅亡し、生活を追われてしまったら、世を逃れるといっても、どこに行くことができるでしょうか。
自分の安心を第一に考えるなら、あなたは、まず「社会全体の静穏」を、祈ることが必要ではないでしょうか。・・・・・(私風現代語訳)
国民全体が、全体として良い選択がなされるように祈っています。
選挙には、是非とも投票しましょう。