帰ってきたヨッパライ  前編 | まよなかのゆりかごより

帰ってきたヨッパライ  前編

りんねーちゃんと雪男くんのお話。




帰ってきたヨッパライ   その1




「雪男のヤツ、遅えなあ……」
 携帯電話で時刻をたしかめ、燐は今日何度目かのつぶやきをもらした。
 明滅するデジタル数字は、すでに日付が変わったことを示している。
 正十字学園旧男子寮、六〇二号室。
 雪男とふたりで使っているこの部屋は、けして余裕があるわけではないけれど、今はやけに広く感じられる。
 足元では猫又のクロが、たっぷり餌をもらってご満悦、尻尾を丸めて気持ちよさそうに眠っている。
「雪男の、莫迦。今日は早く帰ってくるって言ってたのに」
 今日、正十字マートは三日前から楽しみにしていた月末恒例大処分市セールだった。
 正十字学園町は巨大な学校を中心とした学園都市だ。寮生活をしながら学ぶ多く学生たちを支えるため、学園の敷地内にさまざまな商業施設も併設されている。校内の購買施設という括りには収まりきれない、大規模な店舗などもあるのだ。
 そして燐は、そういった学校敷地内の施設ならば、監視役である雪男かシュラに一言断れば、自由に出かけて良いことになっている。
 中でも正十字マートは燐のお気に入り、生鮮食料品がいつでも安い庶民の味方のスーパーマーケットだ。
 なにせ燐は、月々わずか二千円の乏しい小遣いで生活しなければならない。日々の食費その他の経費は必然的に、すでに祓魔師として報酬を得ている雪男に頼らざるを得なかった。
 中一級祓魔師、対悪魔薬学の天才、竜騎士のホープなどと言われていても、雪男だってまだ若い。その懐具合はけして潤沢とは言い難い。
 毎月ぎりぎりの家計の中で、いかに栄養のバランスが良く美味しい食事を用意してやれるか。そこが燐の腕の見せどころだ。
 夕方五時を過ぎてから始まる、生鮮食料品の投げ売りワゴンセール。燐はここぞとばかりに食材を買い込んだ。すかすかだった冷蔵庫には久しぶりに食材がぎゅうぎゅう詰めになり、いつもは肉より豆腐やシラタキばかりが幅を利かせるすき焼きも、今夜だけはお肉が主役。明日のおかずにさわらの切り身も西京味噌の中で眠っている。
 なのに。
『ごめん、姉さん。急に祓魔塾の飲み会が入っちゃった』
 すき焼きの下ごしらえに取り掛かっていた燐の携帯に、雪男からのメールが届いた。
『あんまり遅くならないつもりだけど、先に夕食は済ませていいよ』
 なんて。
 ばかやろう、ばかやろう、雪男のばかやろう。
 せっかくのすき焼きだって、ひとりで食べるんじゃ味気ない。雪男が喜んでくれるだろうと思ったから、奮発してちょっと高い肉にしたのに。
 さいわい、肉も野菜も切っただけで、まだ火は通していない。これなら冷蔵庫であと一日保存しておいても、大丈夫。
 すき焼きの材料はラップをかけて冷蔵庫にしまい込み、燐は自分の分だけ適当にうどんを作って夕食を済ませた。このうどんだってもともとは、すき焼きのシメにうどんを入れて食べるのが好きな雪男のために用意しておいたものだ。足元ににゃーにゃーまとわりつくクロには、よーく冷ましたお麩と半熟タマゴをおすそ分け。
 ひとりと一匹の夕食が終わり、厨房の片づけが済んでも、雪男はまだ帰ってこなかった。
 現役祓魔師として正十字騎士團の第一線で活躍し、祓魔塾の講師も勤めている雪男は、騎士團内のこうした付き合いも避けて通ることはできない。
「そうは言っても、ぼくが飲めないことは他の先生たちもみんな知ってるし。適当なところで抜けてくるよ」
 いつもはその言葉どおり、日付が変わる前にはちゃんと燐の待つこの寮室へ戻ってきていたのだ。
 酒の飲めない雪男が、呑兵衛どもに囲まれる酒の席では、たとえどんな料理が出されたってろくに食べた気にもなれないだろう。そう思って、夜食も用意した。甘塩のシャケをこんがり焼いてほぐして、だし汁も用意して。三分もあれば、熱々さらさら特製シャケ茶漬けを出してやれる。
 なのに。
 雪男がいない六〇二号室は、やけに静かで空気が冷たい。
「ばぁーか……。雪男の莫迦。これ以上待っててなんか、やんねーぞ。明日だってあるんだし、もうおれは寝ちまうかんな」
 聞く人もなく、燐はぽそぽそとつぶやいた。
 そのくせ、学習机に向かったきり、椅子から立ち上がることさえせずに、ただぼんやりと携帯のデジタル表示が移り変わっていくさまだけを眺めている。この部屋の中でだけは隠す必要のない尻尾が、淋しげにぱたり、ぱたりと揺れていた。
 その時。
「ごめんなさぁーい! ねえさん、ただいまぁー!」
 いきなり大きな声がした。
 六〇二号室の扉が開く。
 そして雪男が、左右を祓魔塾の講師仲間に支えられながら、部屋へ入ってきた。
「えっ!? ゆ、雪男!?」
 見慣れた祓魔師の黒いロングコートに包まれた長身が、どさっと床の上に倒れ込んでくる。雪男はそのまま尻餅をつくように、壁に寄りかかって座り込んでしまった。
「雪男、おま……どーしたんだよ!」
「あー、ねぇさん、ごめんねえ……。なんか、もう、ぼく……酔っ払ってまぁす……」
 雪男は燐を見上げて、へろへろと手を振った。
 呂律が回っていない。男にしては色白な雪男のほほが、うっすら赤く染まっている。燐を見上げて嬉しそうな、やたらしまりのない笑顔。
「悪い、奥村くん。こんなつもりじゃなかったんだけど」
 玄関の外では、ここまで雪男を支えていてくれた湯ノ川先生と足立先生が、申し訳なさそうな顔で立っていた。
「奥村先生が飲めないってのはみんな承知してるし、飲ませる気なんかなかったんだよ。でも、ちょっと目を離したすきに、霧隠先生が……」
 湯ノ川先生がちらっと視線で示した先には、もうひとり、ぐでんぐでんの酔っ払いがいた。
「やほおお、りーん、元気かぁー!?」
 やたらと上機嫌なシュラは、廊下にべったり座り込み、それでもビールのロング缶を手放していない。
 だいたいの事情はそれだけでわかった。
 飲んでもまだ理性を保っていた湯ノ川先生と足立先生が、飲み会でつぶれてしまった雪男を支え、雪男が持っているこの旧男子寮に直結する鍵を使って連れて帰ってきてくれたのだろう。で、雪男を送り届けるあいだ、もうひとりの酔っ払いをそのへんの路上に放置しておくわけにもいかず、どうにかここまで一緒に引きずってきた、というわけだ。
 おそらくシュラは、まだなんとか自分で歩けるのだろう。
「ほんと、すまないね」
「いえ、そんな……」
 すまないのはむしろこっちだ。身長一八〇cmの雪男は、けして軽くない。
 湯ノ川先生は額にべったり汗を浮かべ、肩で息を衝いている。足立先生なんか、薄くなった頭のてっぺんからほかほか湯気をたてていた。
 メフィスト・フェレスが作ってくれた鍵は、あくまでこの寮の玄関につながる鍵。建物内部に入ってしまったら、あとは普通に歩いて移動するしかない。しかも取り壊しが決まっていたこの寮で生活するのは雪男と燐のふたりきりなため、電気や水道などのライフラインも、ふたりの生活に最低限必要なものしか用意されていない。当然、廊下はいつも真っ暗、冷暖房なし、エレベーターはあるが動かない。六階のこの部屋まで、階段を上ってくるしかないのだ。
 これはもう、ひたすら頭を下げるしかない。
「すいません、大変だったでしょう。あの、お茶とか……」
「いや、いいよ。これからもうひとり、大虎を送り届けなくちゃいけないから。あ、これ、ここの鍵ね。悪いとは思ったけど、奥村先生のキーホルダーからちょっと抜かせてもらったから」
「はい、預かります。ほんと、ありがとうございました」
 とにかく、部屋の入り口で座り込んでしまった雪男をどうにかしなければ、ドアも閉められない。
「ほら、雪男、起きろ! 立てよ、こんなとこで寝るんじゃねーっての!」
 燐は雪男の腕をとり、思い切り引っ張った。
 悪魔の力を持ってすれば、雪男ひとりくらい、抱え上げられないことはない。
 が。
「もー、重てえっ! なんでお前、こんな重いんだよ!!」
 酔っ払いというのは、どうしてこんなに重いのだろう。燐が腕を引っ張ると、雪男の体はそのままずるずると燐の上に覆いかぶさってくる。支えようとしてもやたらぐにゃぐにゃして、まるで軟体動物だ。
「だーもう! 酒臭えっ! あ、こら、靴脱げ、靴! 土足で部屋ん中入るなっての!!」
「手伝おうか、奥村くん……」
 年配者らしい足立先生の気遣いは、かえって燐を恐縮させる。
「い、いえ、大丈夫です。おれひとりでなんとかできますから……」
「“オレ”じゃねーだろ、りーん! オンナノコは“アタシ”だ、“アタシ”! ア・タ・ク・シ!」
 玄関の外ではシュラが、よけいなことをほざいている。
 燐の出生の秘密を知っている祓魔塾の教職員は、正十字学園高等部に在籍する男子学生・奥村 燐が、男ではなく実は少女だということも承知している。
 アタシだろうがアタクシだろうが、知るか。今はとにかく、雪男を部屋の中に引っ張り上げて、寝かせてしまわなくては。
 燐は雪男の両脇に腕を回し、なんとか抱え上げようとした。
「あー、ねえさぁん……」
 雪男はそんな燐に、さらにべったり寄りかかってくる。なにがそんなに楽しいのか、うふ、うふふ、と笑い始めた。
「ねぇさん、きょおもかわいいねえ……」
「はぁ!?」
「わーい、姉さんのほっぺ、すべすべだああ……」
 硬い指が、燐のほほをなでる。
 する。するするする。すりすりすりすり。
「なっ、なにしてんだ、莫迦っ!!」
 燐は耳まで一気に真っ赤になった。
 予想もしていなかった弟の行動に、とっさに反応することもできず、思わず硬直してしまう。
 燐はそのままバランスを崩し、後ろにどたっと尻餅をついてしまった。べろーっと延びた雪男の身体を抱え込む形になる。
 雪男はそれでも燐から離れない。燐をさらにぎゅっと抱きしめ、頬擦りまでし始めた。
「うふふー……。ほーら、すりすりすりー♪」
「莫迦っ!! 莫迦、やめろ、雪男―ッ!!」
「えー、なんでさあ……。いいじゃない、だって姉さん、こんなに可愛いんだもぉん……」
「あほおおッ!!」
 のしかかってくる体を乱暴に押しのけようとして、燐は気づいた。
 ――これって、親父(ジジイ)が酔っ払った時と同じじゃねえかよ!
 燐と雪男の養父、今は亡き藤本獅郎神父が、酔っ払うといつもこんな行動をとっていた。
 まだ幼かった燐と雪男を両脇にかかえ、「ほーら、おヒゲじょりじょりだじょおー」なぞとほざきながら、無精ひげの浮いた頬を子供たちに擦り付けて喜んでいたのだ。
「とぉさん、いたいよー!」
 と、子供たちがはしゃぎながら嫌がると、
「いいだろお! お前たちが可愛いから、こーしてやるんだー!」
 なんて、さらに有頂天になっていた。
 ――この、莫迦。
 ジジイと血がつながっているわけでもないのに。なんでこんなヘンなとこだけ似てるんだよ。
 燐の胸に、切ない感慨がよぎる……ヒマはなかった。
「莫迦っ! よせ、莫迦! 湯ノ川先生たちが見てるぞ!!」
 へばりつくタコと化した雪男を、そのほっぺたを、どうにか押しのけようとする。
 玄関先では湯ノ川先生と足立先生が、大人の気遣いで“見てない、見てない”と首を横に振ってくれていた。
 ――先生! その気遣い、今は返ってイタイですー!!
 酔っ払った父親が、4~5歳の我が子を捕まえておひげじょりじょりなら、「あー、藤本神父も子煩悩ですねえ」と生ぬるく見守ってもらえるだけだろう。
 だが、こんなでかい図体の若い男が、こともあろうに実の姉にそれをやるとは。
 さすがにこれは洒落にならない。
 が、ぐでんぐでんの酔っぱらいは、燐の焦りも先生がたの気遣いも、まるでお構いなしだった。
「え……? 湯ノ川先生が?」
「そーだよ! ほら、礼言え! おふたりがお前をここまで連れてきてくれ――」
「なぁに見てるんですかあ、湯ノ川先生。足立先生までぇ!」
 雪男は燐を抱きしめたまま、じろりとふたりの先輩講師を見上げた。
「こッ、こら雪男! なに言ってんだ、お前!」
「ダメですよ! そんなとこで見てたって、姉さんは貸してあげませんからね!」
「はあッ!?」
 思わず声がでんぐり返る。
「姉さんは、ぼくだけの姉さんですう! ほかの男になんか、絶対触らせませんからね!」
「ゆッ、ゆ、雪男おおッ!!」
 一八〇度裏返った声で、燐は絶叫した。
 雪男はなおも、うふふ、うふふ、と笑いながら、燐にすり寄る。耳元ですんすん匂いをかいでみたり、髪にしょりしょり頬摺りしてみたり。
 しまいには燐の胸元に顔をうずめ、その柔らかな感触を堪能し始めた。
「うわああっ! よせっ! なにやってんだ、お前ええッ!!」
「だあってぇー。気持ちいーんだもぉーん。姉さんだって、ぼくにこうされるの――」
「わーッ! わーッ! わーッ!!」
 ――言うな! それ以上は絶対言うな! だってそれは、世間一般的に絶対やっちゃいけないことなんだから!!
「おーいー、雪男ぉー! なに、ひとりでイイことやってんだ、お前はぁ!」
 玄関の外の廊下で、シュラが声を張り上げた。
「ずるいぞ、お前ばっか! あたしにも燐のおっぱい触らせろー!」
 いきなり何を言い出しやがるのか、この雌大トラは!
「男でなけりゃ、燐に触っていいんだろー!? あたしにも燐のAAカップ揉ませろー!!」
「誰がAAカップだ、もうちっとあるよ! ――じゃねえ、シュラ!お前、いってーナニ言い出してんだ! 雪男も、銃なんか抜くんじゃねー!!」
 燐は慌てて雪男を羽交い締めにした。現役祓魔師、泥酔して銃乱射。そんな見出しが朝刊の第一面を飾るのだけは、勘弁してほしい。
「燐がいつまでも貧乳なままなのは、いつも揉んでるヤツが下手くそだからじゃねーのかぁ!? なあ、おい、雪男! だからほら、いっぺんあたしにやらせてみろ! すぐにこーゆー胸にしてやるぞー!」
 シュラは大迫力のバストを自慢げにゆっさゆっさと揺さぶった。
「駄目! 絶対触らせない! 姉さんの胸は、右も左もどっちもぼくのです!!」
「あほおおッ!! おれの胸はおれのモンだ! 誰のモンでもねー!!」
「姉さんの胸がおっきかろうがちっさかろうが、余計なお世話です!だいたい、でかけりゃいいってもんじゃないでしょう! ぼくはね、このサイズが気に入ってるんですよ! ちょうどぼくの手にすっぽり収まって、感度が良くて――!!」
「だああああッ! 黙れ黙れ黙れーッ!!」
 ダメだ。限界だ。これ以上こいつの口を自由にしといたら、いったい何を言い出すかわからない。
「あ、あのっ! 足立先生、湯ノ川先生、もう大丈夫です! あとは、こっちでちゃんと面倒見ますから!」
「あっ、ああ、うん、そうだね! それじゃ任せたよ、奥村くん!」
 湯ノ川先生は赤くなったり青くなったり、信号機みたいな顔色で言った。
「足立先生、おいとましましょう! ほら、霧隠先生を職員住宅まで送っていかなけりゃ!」
「そ、そうだった。たしかに、急がなければ終電がなくなる。家じゃ女房が待ってるんだ。ウチの女房は怖い! 魔神よりも怖いぞー!」
 燐同様、月面宙返り三回転半ひねりした声で言い訳めいたことを口走りながら、ふたりの講師はあたふたと部屋を出ていった。
「ねっ、ほら、霧隠先生、立ってください!」
「えー、まだ帰りたくなぁーい!」
「いいから、立って!」
「よーし、そんならもう一軒行くぞ、もう一軒!」
 暗い廊下に雌虎の遠吠えが響き渡り、やがてどたどたと階段を下りていく足音が聞こえる。
 階下で寮の玄関の扉が開き、そして閉まる音を確認し、燐は大きくため息をついた。
「この……莫迦ゆき! 酔っ払い、飲んだくれ! いったい、な、なにを言い出すんだ、お前はっ!!」
 もう情けなどかけてやるものか。べったりぐでぐでまとわりついてくる大きな体を、燐はていッとばかりに床へ投げ出した。
 雪男の長身がどたーっと畳の上へ倒れ込む。
「姉さぁん、痛いよお……」
「知るかッ!!」
 本当に、もう知るか、こんな酔っ払い。
 このまま放り出しておけば、雪男はすぐに寝つぶれてしまうだろう。畳の上で一晩眠って風邪を引こうが、祓魔師のロングコートがシワだらけになろうが、それは全部自業自得だ。
「おれはもー、風呂入って寝る!」
 燐は怒りとともにそう宣言し、お風呂セットを持って一階にある浴場へ向かおうとした。
 が。
「待ってよ、姉さあん!」
ぎゃーッ!?
 こともあろうに雪男は、燐の最大の弱点である尻尾をむんずとひっつかんだ。





続きます。
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