ノンディアリティ (非ニ元) 、アドヴァイタと言った、インド発祥の唯心論(独我論)。

心の平安⇒ノンディアリティについて、私なりに考えを巡らせてネットの情報も収集していました、ここ3年間ほどでしょうか。

 

アドヴァイタは海外では、そこそこ支持者が多い分野。

日本語翻訳されている超有名人ではエックハルト、ガンガジと言った現存する覚者が幾人もいます。かれらは、ネットメディアを積極活用して、探求そのものの意味と方法論を、オープンにしています。

 

日本では、これと言った有名人を私は知りませんが、個人ブログ動画により アドヴァイタ についての情報が無償で公開されておりまして、大変参考になります。

 


悟り、覚醒。について、ノンディアリティの人々が分かりやすく語っていることを知り、先にあげたエックハルト、ガンガジの本や動画を観ていたわけです。彼らの語りは、本当にわかりやすく、今の気持ちの落ち着きに役立っていると思います。

 

最近、ようやく知ったのが、「私とは誰か」、という行法(真我の探求)。 

「私とは誰か、誰か、誰か、誰か・・・」

「私とは誰か、私、私、私・・・」
 と言う感じで、黙想するだけです。

「私とは誰か」と、心唱してもいいですし、意識だけを「私」に向け続けるという方法もありです。

「私は誰か?」という問いかけによる実践的な真我の探求(アートマ・ヴィチャーラ)を推奨した。肉体を自分であると誤ってみなしているエゴである「私」の 根源を探求することで、「私」が根源である真我に溶け込み、消え、純粋な意識であり絶対的実在の真我のみが残る。これは、ヴィチャーラ・マールガ(探求の 道)またはジニャーナ・マールガ(知恵の道)と呼ばれる。

 

風呂につかりながら、「私、私、私・・・」って、意識を向けていると確かに想念が収まるのが分かります! そして、安らいだ心に導かれてゆくのが意識できます。

 

マントラを唱えたり、瞑想をするよりも、直接的な行法として勧められているそうです。

簡単な行法なので、場所を選びませんし、霊性に関する知識も不要ですので敷居は大変低いですが、これを続けるとなると辛抱強さが必要ですね。

奥深いと思います。

 

真我の探求を推奨した人が、100年前の印度聖者ラマナ・マハルシ師。

この方の言葉がとてもシンプルでいて、心の盲が解けるように感じられます。

シュリー・ラマナ・マハルシは南インドの聖者。(1879年12月30日 - 1950年4月14日)

解放に到達するための直っすぐな道として真我の探求(サンスクリット語:आत्म विचार、英語:Self-enquiry)を推奨した。

 

wikipediaより

 

こんなに染み入るような、言葉の数々がネットでフリーでオープンである世界の在り方に感謝です。

 

これまで賞賛されてきたオリジナルな思想や、物や、国などの新たな発見は、何一つオリジナルでも新たな発見でもありません。すでに心の中に存在していないかぎり、何も現れ出ることはできないのです。(ラマナ・マハルシ)

喜びとは心の向きを変え、内面に向かうようにすることです。苦しみは心を外側に向けることです。ただ喜びだけが在ります。喜びの不在、それが苦しみです。人の本性は喜び―至福(アーナンダ)なのです。(ラマナ・マハルシ

心は常に自己の内面の知識を後回しにして、外側の知識を求めるのです。-ラマナ・マハルシ

 

色即是空、不生不滅。

私はある、アイアム・ザット。

そのような見方があるのか。私には理解できないが、憧れをともない気になっていました。

そのような見方=悟りであり覚醒。

 

今どきは、山や寺に籠らず、ネット上のフリーな情報と、探求者同士での情報交換でで悟る人が増えているようですね。情報商材のように高額な費用は不要なのが今どきのネットです(

カルト的な集団もネット上にはいるので、注意は必要ですが)。

 

違った世界の景色をすでに観ている人々は、身近にいるのでしょうね。

少し、愉快な気持ちになります。

 

最後に。

以下は、マハルシとの問答を朗読している動画ですが大変聴きやすいので、気に入っています。

興味がございましたら、一度視聴してみては如何でしょうか。

 

 

 

 

 

※関係ないですが、なかなか美しい歌でした。

Skylar Grey - Moving Mountains

 

 

◆コピペ、転載はお断り。

 

※追記2016/08/01

・真我は、実在論とはちょっと違うのですがほぼ重なります。
・真我を語るとそれは自動的に、この世界を超越した存在、形而上学的独我論の領域です。
・そして、私的言語論で独我論は無意味と論証済みです。
・真我が実在するか否かは、無意味な問いです。
・心のエクササイズとして、「私はだれか」と内面に目を向けることは、体感としてよいかなと今は思います。