以前の投稿で「神秘体験について」 で、実体験を一部報告しました。

神秘的体験は私個人だけではなく、参加者の少なくない数は経験しています。
幻聴や局部的な熱感、頭部や胸部の圧迫感、強烈な光と歓喜を実感する場合や、
具体的な造形を帯びた神(悪魔や聖霊)の幻視などなど。
個性の数だけ神秘的体験も無数にありますね。

もちろん、そういった主観的体験はザイクスの霊的主張を裏付けるものではなく、
条件次第では多くの人が経験し得るものなのです。

終わりなき日常を生きろ(ちくま文庫) 宮台真司著
”神秘体験というフック 53ページ

元オウム教団幹部A(省略)入信動機の一つは、自分自身の神秘体験の数々を、
麻原教祖の本だけがうまく説明していると感じたからだった。そして実際に
入信してグルに従うと、ますます神秘体験を重ねることができたいという。
しかし、この私(著者:宮台真司)のように実際にマインド・コントロールする側の
訓練を受けてきた立場からいうと、神秘体験が神秘的なのかどうかには、
大いに異論の余地がある。すなわち、ある舞台装置を設定して、
手順を踏んでエクササイズを施していくと、相手に幻覚を見させたり、
神の声を聞かせたり、自分の体から高熱が発しているように感じさせることは
それほど難しくはないのである。神秘体験は体験として実在しても、
それを引き起こす手順は神秘的ではないとも考えられるのだ。”


その神秘的体験はどうして、マインド・コントロール=盲信に繋がるのか再考。
その神秘的体験のトリガーは、発熱かもしれないし、薬の作用かもしれないです。
職場のストレスなのかもしれない。

いつもと同じ生活で突然別次元の扉が開く。
そんな経験を重ねるとその神秘的なものの”意味”を強く求めざる得ないと思います。

その意味の正解を、滔々と説くグル(霊的指導者)はなにも伯壬旭軍帥だけではないです。
ネット界隈でも自慢気な自称グルやスピリチュアルを名乗る方々は多数おります。

”神秘体験というフック 53ページ

「本来ならどうにでも解釈できる(麻原教祖による)挿話を、特定の解釈しかあり得ないもの
として受け入れる」──そこには確かに、「マインド・コントロール」というべき人為的な
操作が働いていると見える
。”



神秘体験を神秘的な事実として受け入れること。
これが、作為的な価値観を受け入れることに繋がりやすいと思います。
その上で、グルにより行われる観念操作を受け入れる土壌が出来上がるのです。


大切なことは、神秘体験それ自体には意味は無い。
と、いう正解がない事実を受け入れることだと思いますね。
その態度を虚無主義、相対主義と嘲笑することは簡単です。

唯一無二の理論と謳われたザイクス理論を捨てた元会員の一人ですが、
正しさが無い世界に放り出された退会当時の精神の揺らぎは
事実、車酔いに常時襲われているような辛さをともなっていました。

ならばどのように正解がない世界と、つき合ってゆくのか。

正しきモノに裏切られたと感じて、また別のところに存在するかもしれない
万物の理論や霊的体験といった正しいモノを探すのではなく、
いかによりよく生きる術を身につけるのか。

そういったことを、私も含めて現会員諸氏(このブログを見ていればですが…)は、
真剣に考える時期だと思うのです。