愛情について学ぶ⑤ ~愛は与えるもの~
『愛情について学ぶ』の記事は
・フロム『愛するということ』 2014年2月 (100分 de 名著)
の2冊の本を参考にしています。(引用は一部要約しています。)
前回は、未成熟な愛の形について考えました。
それでは、成熟した愛の形とは、どのようなものでしょうか。
フロムは、『成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない』としています。
そして、『愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛は何よりも与えることであり、もらうことではない』としています。
「与える」というのは、言葉で言うのは簡単ですが、その裏には複雑な感情が渦巻いています。
与えることに対して、見返りを期待している人もいます。
与える=自分が損をする、と感じている人もいます。
与える=自分が損をする(犠牲を払う)=美徳、と感じている人もいます。
フロムは、こうした見返りを期待した愛や、自己犠牲を美徳と感じているナルシシズム的な愛は、いくら与えても、本当の意味での与える行為ではないと言います。
与えるとは、本来は、喜びです。
フロムは言います。
『与えることは、もらうよりも喜ばしい。それは、剥ぎ取られるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。』
ここで言う『自分の生命力の表現』とは、どういうことなのでしょうか。
以下に引用します。
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人は他人に、物質ではなく、何を与えるのだろうか。
自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現(自分の生命)を与えるのだ。
自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高める。
もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。
だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分にはね返ってくる。
与えるということは、他人をも与えるものにするということであり、たがいに相手のなかに芽ばえさせたものから得る喜びを分かち合うのである。
愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。
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『与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分にはね返ってくる』というのは、支援や保育の現場で、わが子や、他の子どもたちと関わっていると実感します。
子どもたちとの関わりでは、日々、試行錯誤したり、悩んだり、苦しんだりもするけれど、それ以上に、子どもたちからたくさんの喜びや充実感を与えてもらってもいます。
また、息子や他の子どもたちの障害と向き合う日々の中で、自分自身の人生観や価値観が大きく変わり、以前よりも広い視野で物事を考えられるようになりました。
教育も、保育も、福祉も、子育ても、援助する側→援助される側への一方通行なのではなく、お互いが与え、与えられる相互関係で成り立っているんだなぁと思います。
でも、なんでだろう・・・。
これが異性との恋愛になると、なぜか私は、損得勘定が入ってくるんですよね(^_^;)
お金のこととか、家事負担とか、子育ての負担とか、自分にばかり負担がかかっているとすごく損をした気持ちになるし、「なんで私ばっかり!」って、相手に対して腹が立ってきます。
恋愛と損得勘定って、本来、相容れないものなんだけど・・・。
無意識のうちに、恋愛相手に対して、自分にとって心地よい生活を提供してくれる人や、自分にとって都合が良い人を、求めていたのかもしれません。
そんな人いるはずもないし、そりゃ長続きもしないはずですね(笑)