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第弐・奔放処

日々のくだらないこと・音ゲーやCABALについて書き綴る第弐生息場所。



毎日更新できたらいいなと思うだけ思う。

俺が小学校に上がる前に離婚し、母は女手1つで俺を育ててくれた。
父と結婚する前仕事らしい仕事もしたことがなかった母は
お弁当屋の調理やコンビニエンスストアのレジなどのパート勤務で生計を立てていた。
当然家は貧しく、俺は高校を卒業したものの、バブルがはじけ最悪の不景気で、就職もできず家でぶらぶらしてばかりいた。
そんな俺に母親は「そのうちいい仕事が見つかるよ^^」と独り言のように呟いては無理に明るく笑いかけていた。

ある日、母は「パソコンぐらい使えないと就職も難しいのかね?パソコン買おうか?」と言い、俺を電器屋に連れていった。
パソコンのことは何も知らない母と俺は店員に勧められたパソコンを買いインターネット接続の作業も頼んで店を後にした。
帰るとき母親は「25万円かー、こんな大金を使うのは父さんが死んで初めてだねw」と笑った。


新たに増えた月々15000円のローン返済のために母は、パートを増やし夜遅くまで働くようになった。
俺の方は無料で遊べるネットゲームを見つけ、その面白さに魅せられ、来る日も来る日もひたすらネトゲばかりしていた。
いつもパソコンに向かっている俺を、パソコンの学習と思い込んだ母親は「パソコン上手になった?いい仕事が見つかるといいね」と
言っては笑ってた。毎日働きづめの母親の笑い顔はどこか疲れていて
俺はその笑顔を見るとゲームばかりやっている自分が情けなくなった。

そんなある日、母の仕事先から電話があった。
母が倒れて救急車で病院に運ばれたとのことだった。俺は急いで病院に向かった。
ボロボロの自転車を1時間あまりこぎ続けて、ようやく病院に着いた。
心配している俺に向かって母親はベッドから起き上がり、「ただの過労だよ。」と笑った。
「自転車で来たの?ここまで来るの大変だったでしょ?パソコン上手になって
 いい仕事が見つかったら新しい自動車も買えるからね。」と言いながら、細い腕を伸ばして汗だくの俺の額をタオルで拭いてくれた。


病院まで遠いこともあって、俺はそれ以降は病院に行かずに母親の世話は近所のおばさんに任せっぱなしにして、母のことを気がかりになっていたものの相変わらずゲームにのめりこんでいた。

母が入院して5日後、病院から精密検査の結果をお伝えしますからという電話があり、俺はボロボロの自転車で向かった。
5日ぶりに会った母親はいよいよ元気がなく、俺は妙な不安を覚えた。母親との面会の後、診療時間を過ぎた診察室に通らされた俺は、担当の医師から母親が急性白血病であと3ヶ月あまりの余命だということを聞かされた。

頭の中が真っ白になった。
母親に負担をかけっぱなしで、最近は母親の期待を裏切ってゲームばかりしている自分が情けなくて、馬鹿すぎて、涙がこみあげてきた。
医師は「患者さんに動揺を察しられるといけませんから今日はこのまま帰った方がいいでしょう」と言われ母になにもつげずに家路に着いた
俺はずっと泣きながら自転車をこいだ。


家に着くと俺はすぐにRMTで自分のアカウントやアイテムを全部売りに出した。
かなりの安値なのですぐに買い手は見つかった。

翌日、自分のちっぽけな郵便預金口座から振り込まれた8万円を引き出し、
母が大好きなチーズケーキと生クリームがのったプリンをケーキ屋で買い綺麗に包装をしてもらい
病室を訪れた。

日に日に日やつれていく母はチーズケーキを見ると驚いて「お金はどうしたの?」とたずねた。
「ネットのパソコンのバイトで8万円ほど手に入ったから」と俺は嘘をついた。
母は心から嬉しそうににっこり笑って「パソコン上手になったからいい仕事が見つかったんだね、がんばってね^^」と言った。
「自転車もいいの買えるね、あとは自動車の免許をとって車を買うのに無駄遣いはしないでね」と続けて言い、おいしそうにプリンを食べた。
自分の体が日に日にやつれていくのに「体は大丈夫?ちゃんとご飯食べてる?風邪ひいてない?」
と俺の心配ばかりしてくれた。


入院してから2ヶ月ほどが過ぎた日の朝、いよいよ母はきびしくなった。
朝すぐに病院から呼び出され俺がかけつけると、苦しそうにハアハアと息をする母がいた。
かけつけてからずっと母の手を握り締めた。
たまに薄く目を開け俺に何か言いたそうにするのだが、聞けることはなかった。
ただずっと泣いてばかりの俺の手を母は、優しくさすってくれた
死ぬ間際だというのに、すっげー苦しいそうなのに、泣いてる俺を励まそうとしてくれた…。

その日の午後、母は俺の手を握りながら息を引き取った
母の遺体が安置室に運ばれ、がらんとした病室で小物類を片付けていると、看護婦さんが俺を慰めようと優しく声をかけた。
「パソコン得意なんですってね、お母さんは毎日のように自慢してたわ」
俺はその言葉を聞くやいなや涙がこみ上げてきた。
そして体を震わせて大声を上げて看護婦さんの前で泣き続けた…。
3歳になる娘が、突然字を教えてほしいといってきた・・・。
どうせすぐ飽きるだろうと思いつつも、毎晩教えていた。

ある日、娘の通っている保育園の先生から電話があった。
「○○ちゃんから、神様に手紙を届けてほしいって言われたんです」
こっそりと中を読んでみたら、
「いいこにするので、ぱぱをかえしてください。おねがいします」
と書いてあったそうだ。
旦那は去年、交通事故で他界した。

字を覚えたかったのは、神様に手紙を書くためだったんだ・・・
受話器を持ったまま、私も先生も泣いてしまった。

「もう少ししたら、パパ戻って来るんだよ~」
最近、娘が明るい声を出す意味がこれでやっとつながった。
娘の心と、写真にしか残っていない旦那を思って涙が止まらない・・・。
高校三年の時。
ウチのクラスは本当に仲良くて、毎日毎日ワイワイやってた。
ただ一人を除いて・・・
ケババァってあだ名の女子がいた。
女子と言っても二年も留年してるからもう二十歳で、超ギャルで、ケバくて、超美人だけどツンとしてて、ブランド物をジャラジャラつけて、香水プンプンで。
彼女はクラスの輪に入ろうとはしなかったし、みんなも彼女を避けていた。
楽しかった一年があっという間に過ぎ、卒業式の日が来た。
最後にクラスみんなで輪になって、一人一言ずつお別れの言葉を言うことになった。

その時のケババァの言葉。

「私は白血病で入院していた為、二年間も高校を休学していました。
もう二十歳なのにコスプレみたいと思われたかもしれないけれど、
オシャレをすることはガリガリでハゲ頭だった入院中の私の夢でした。
だけどホントはオシャレよりもしたかったことがあります。みんなと仲良くしたかったです。」

そう言った彼女は目に涙をいっぱい溜めて、とても綺麗で、ツンと何てしていなかった。
それまでヘラヘラしてた奴らも泣き出していた。
彼女の言葉を一学期に聞いていたなら、きっと彼女にとって楽しかった一年になったに違いない。
何だか凄く悔しかった。

今年、母が亡くなった。

遅い反抗期だったと思う。中学生まで親に逆らわず良い子だった俺が、
高校生になり急に親に反抗するようになった。
母親には罵声を浴びせ、家に帰らない日々が続いた。

高校卒業と同時に家出同然に実家を出た。
最初のうちはそれでも住所くらいは伝えていたが、
住所を何度か変えるうちいつの間にか両親との連絡は一切途絶えてしまっていた。
唯一電話番号を教えていた(それでも一切連絡のなかった)弟から電話が来たのは、
俺の彼女のお腹に子供がいることが判明した今年2月の事だった。


母が倒れたと言う。
両親に対する反抗心はもうなかったが、いまさら帰るのは正直億劫だった。
母が深刻な状態などとは思ってもいなかった。
それでも行く気になったのは、彼女を紹介しようと考えたからだ。

母親が亡くなったのは、翌日俺たちが高速道路を走っている頃だったらしい。
久しぶりに会った親父はひどく小さな背中をしていた。
相変わらずの無骨な声で、「よう」だか「おう」だか一言発しただけだった。
母は俺の記憶とは全く違う老いた顔で、それでも安らかな表情で眠っていた。
涙は出なかった。

葬儀も終わって一週間位たった頃、親父から俺宛にひとつの段ボール箱が届いた。
中身は父の無骨な字で書かれた「母さんの形見だ」というメッセージと大量の手紙、
そして、ひとつの指輪だった。
百通以上はあろうかという手紙は、すべて母が俺に宛てて書いたもので、
俺が家を出た頃から書いていたらしい。
母らしい丁寧な字で ひたすら俺のことを心配する、そして自分の不甲斐なさを俺に詫びる内容だった。
それらの手紙は、親父らしからぬ几帳面さできちんと順番に梱包されていた。
同封されていた指輪にも一通の手紙が添えられていた。
「この指輪は、私のお母さん、つまりあなたのおばあちゃんの形見です。
私が結婚するときにもらったものです。
あなたにいい人ができたら、この指輪をプレゼントしてあげてください。
私の両親や私たちのように、幸せな家庭を築いてください。」
俺は指輪と手紙を彼女に渡して、黙って寝室に行った。

しばらくして彼女が真っ暗な部屋に入ってきて、俺の背中に背中を合わせて座った。
すすり泣いていた。
その時、「あぁ、泣いてもいいんだ」と思った。
涙が出てきた。止まらなかった。母さんごめんな。そしてありがとう。
生まれてくる娘の名前には、あなたから一文字頂きます。
あなたに返せなかった愛情を、そのぶんこの子に与えられるように。

そして、あなたの優しさや強さをこの子に伝えるために。