『助けてもらったことにならない』 | 月のベンチ

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両親の闘病記

東京都心の一角に、ひっそりとそのお寺はあった。

突き当たりの目立たない門をくぐった正面に、たくさんの折り鶴と、たくさんの願いが書かれた“ほうろく”に埋まるように、そのお地蔵さんは佇んでいた。


『ほうろく地蔵尊』。

私たちの身に降りかかった病を、代わりに引き受けてくれるという。

五年前の晩夏、私は初めてそこを訪れた。
母の病-くも膜下出血、急性硬膜下血腫、脳梗塞-を引き受けてもらうために。


住職がほうろくに母の病を書き記し、祈祷。
その後、身代わり地蔵と言われるお地蔵さんにほうろくを奉納する。

母はひと月以上人工呼吸器がとれず、クリッピング手術も出来ないまま一般病棟に移された。
すでに再出血し、次に起きれば命はなかった。

身代わりにはなってくれなかったけれど、かろうじて一命は取り留めた。

昔、母のように一命は取り留めたけれど、重度の意識障害が残ってしまった患者家族が医師と看護師に言ったことば。

『これでは助けてもらったことにはならない』






私たち家族は、それでも何かに感謝しなければならなかったのだろうか?


もう、何度か書いている。
母の延命措置は、選んだものではなかった。
手術が出来る状態になるまで、2ヶ月近い時間を要したので、その手術にたえるため、やらざるを得ない措置だっただけだ。



結局、三度の大手術を受けたにも関わらず、意識は取り戻せなかった。





それでも、生きていることだけにでも、感謝しなければならないだろうか?


私が毎日悲しくなるのは、『母』を取り戻せなかったからだ。

あの日、何の心の準備もなしに、

母と
これから訪れる事態の話もできないまま、

あっけなく
『母』を連れて行ってしまったのだ。

『意識障害』とは
そういうことだ。





あの地蔵尊には
手術が失敗してから一度も行っていない。





バチあたりだろうか?









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