スズラン街の万邦靴店と朝倉菓子屋の間を山形駅方向に入った路地
(昭和40年6月撮影)
最上屋旅館の裏。この道は今ない。
駅から2分の場所でも、40年前はこんなに道が細く、木造家屋が密集していた。
猫の額ほどながらも、各家に庭があり、そこに目一杯野菜と花を植え、採卵のために鶏を飼っていた。
休日には母親が庭に盥(たらい)を出して洗濯をした。
水道からホースで水を引くので、子供らは大喜び。ホースを振り回しては怒られた。
どの町内にも子供が溢れ、縦横無尽に走りまわっていた。
車が通れる道幅ではない。自転車がすれ違えるほど。
家を建てる際、資材をどうやって運んでいたのだろう。
辰つぁんたちはこの道の真ん中にミカン箱を置いてパッタをしていた。
通る人に邪魔だと言われたことはなかった。
山形駅の北側にあった国鉄官舎
(JRに変わるまで国鉄社員は公務員だったので、「官舎」と呼ばれた)
塀も壁も黒いコールタールで塗られていた。
この辺は一軒家で、風呂も庭も付いていた。国鉄でも比較的偉い人達が住んでいた。
偉くない人達は、線路の反対側の木造2階建ての国鉄アパートに住んでいた。
その建物は入口が一つで廊下は土足禁止。玄関で靴を脱ぎ、自分の部屋の靴箱まで持って行く。
トイレも風呂も共同だった。風呂は週2回、家族毎に入る曜日が決まっていた。
部屋を一歩出るとそこは公共の廊下で、会社の同僚、上司にばったり顔を合わせる。
同級生の子供がいれば、家でも学校でも一緒ということになる。
今では考えられない窮屈な暮らしだったが、人々は、そんなものだろう、と大らかだった。
辰つぁんはこの辺の官舎にも、国鉄アパートにも毎日遊びに行っていた。
右端の建物は道路をはさんで、かのや食堂の北隣の旅館である。
現在この官舎一帯は東口駐車場になっている。
あの頃を偲ぶものは何一つ残っていない。
この辺りは、駅長~鉄道病院医長クラスの官舎。
黒い板塀が家の中を完全に遮蔽している。
突きあたりの家の向うが線路である。
各家に車庫はないから、道も車が入ることを考えていない幅である。
左の家はよく遊びに行った同級生の優香ちゃんの家。
お父さんが鉄道病院の内科の先生だった。
優香ちゃんは仙台に引っ越して行った。
それまで飼っていたコロという犬を辰つぁんがもらった。
コロについては次回、「セピアの町4」 で。
昭和41年、官舎の取り壊しが始まり、駅前の風景が一変した。
優香ちゃんの住んでいた家も、子供らが野球をしていた広場もなくなり、微かに残っていた戦後の雰囲気は消えた。
私は泣きたい気持ちをこらえ、写真を撮りまくった。
この区画整理を決めたのは大久保伝蔵市長(昭和29年11月~41年10月在任)である。
当時この辺りは、家中衆の屋敷が軒を並べ、福島家のような立派な武家屋敷もあったが、ヴィジョンを欠いた破壊だったので、跡地は人も寄り付かない怖い呑屋街になった。
私は小さかったので、大久保伝蔵という人が市長としてどうだったのかわからない。ただ駅前の貴重な町並みを破壊し尽くしたことは許せないと思っている。
(文翔館として保存された旧県庁も、一時取り壊されて駐車場にされる危機があった!)この頃はまだSLが走っていた
このSLがE君の左足を奪った
路地から子供らの元気な声が聞こえてくる。
夕刻、懐かしい町並みに電気が灯る。
左足を失くした子供は、兄に手を引かれて家路を急ぐ。
夕映えは兄弟の顔を茜に染めて行く。
蒸気機関車は何事もなかったように警笛を鳴らして疾走する。
警笛は兄弟にどのように聞こえているのだろう。