今年初めにブログに綴った「奇跡の鉛筆」でご縁を頂いた方にもお会いしたかったのですが、私がくだらない寄り道をしてしまい、時間が無くなり実現できず残念でなりません。

 

https://ameblo.jp/9203kuni/entry-12237207453.html

 

来年また奈良に行きたいと思っておりますので、次回は絶対にお会い致したく思っております。

 

話しは戻り、閃きから阿部の祖を辿る為、駆け足で奈良を巡った翌日に大阪の阿倍王子神社に足を延ばしました。

 

 

奈良から阿倍王子神社へはJR線で向かったのですが、最寄り駅はなんと天王寺駅!

 

 

そして天王寺駅の真向かいに在るのはあべのハルカスにある近鉄線の阿部野橋駅!!

 

 

そしてここの住所は大阪市阿部野区です。

 

阿部野の地名は、古代の豪族・阿倍氏が住んだ地から由来しています。

 

これだけでも阿部は王家の流れをくむ一族であったのではないかと想像されます。

 

先日、某TV番組で「阿部」の名前の由来は「天皇の料理人だったこと」と嘘を流していました。

 

確かに「高橋」の苗字の由来は料理を司る人々っであったと文献で確認ができます。

 

しかし、「阿部」の苗字の由来が「天皇の料理人からきた」等ということは歴史書のどこを見ても確認できません。

 

まして、阿部は古代から存在した氏族で、海軍でも活躍した阿倍比羅夫や遣唐使で広く知られている阿倍仲麻呂も歴史書で確認できます。

 

であるから、もし阿部氏が料理人であったら「阿倍王子神社」という名の神社は存在しないはず、というかそのような名称を使うことは民達をはじめ中央政権が許さなかったはずです。

 

無知な人は、TV番組が放送することは全て真実と思ってしまうところが本当に怖いと感じました。

 

自分の祖に興味がある方に人気のNHK番組に「日本人のおなまえっ!」があります。

 

 

以前、「阿部」が取り上げられていましたが、古くからある名前と締めくくり、あまり古代のことに触れませんでした。

 

日本における阿部の存在は、そこに隠さなくてはならない真実があるからなのかも知れません。

 

さて、阿部王子神社へは可愛い路面電車に乗って向かいました。

 

 

前日の天気予報では明日は「雨」とのことだったので、コンビニでビニール傘を購入ましたが、翌日、奈良を出る時に天気予報を確認したところ「晴れ」に変わっていたので、ホテルに置いてでました。

 

しかし、大阪に着いたら強風に小雨が降る天気へと変わっていました。

 

最寄り駅を降りると神社までは細い路地を歩いて行きます。

 

 

安倍晴明神社は、そんな路地の一角にひっそり鎮座しています。

 

 

ここの神社で嬉しく思ったのは安倍晴明像でした。

 

 

このようにお姿を現して頂けることは本当に有難いことと感じます。

 

 

安倍晴明の産湯井戸・・・。

 

安倍晴明神社を後にして細い路地を進むと阿倍王子神社が直ぐ側に鎮座しています。

 

阿倍王子神社は、仁徳天皇が創建したと云われる社です。
 

 

阿倍王子神社の本殿に参拝すると、天気が回復して晴れやかで温かな日差しが境内に射しました。

 

 

本当に急に移り変わった天気でした。

 

ここの境内で一番気になったところは、八咫烏をお祀りしている社です。

 

 

他にも稲荷などがお祀りされていたのですが、私はこの八咫烏の所が一番パワーを感じてしまいましたよ。

 

 

ここへ来ることが出来てよかったです。

 

 

帰宅して前回のブログに「阿倍文殊院」を綴ってから、母の姉(86歳)が祖父より語り継いでいた阿部家の銘刀と献上したお寺名を聞くことが出来ました。

 

その銘刀は鞘から抜くと青白い光を放ち、血が騒いでしまう事から、そのお寺に献上したそうです。

 

しかし、そのお寺は炎上してしまい、刀は焼失してしまったとの話でしたがその後お寺は再建されて存在しているとのことです。

 

調べると、な、なんとっ、そのお寺はもとは坂上田村麻呂が建立したとのことでした・・・。

 

 

坂上田村麻呂といえば東北の阿弖流為(アテルイ)や蝦夷(えみし)の制圧に赴き功績を讃えられた将軍で、京都清水寺を建立したことでも知られています。

 

 

阿弖流為(アテルイ)と蝦夷(えみし)の族長・母禮(モレイ)は、坂上田村麻呂の説得に応じ、和睦の約束を信じて東北の地から京へ向かいました。

 

しかし、大和朝廷からの命は斬首さらし首の刑だったのです。

 

坂上田村麻呂の「彼らは敵ながら尊敬に値する人物であるから助命を」の嘆願は聞き入れてもらえなかったのです。

 

阿弖流為(アテルイ)や母禮(モレイ)をはじめ、東北の蝦夷(えみし)の武人達に「卑劣ともいえる裏切り行為」と捉えられる結果に対して、武人として慚愧の念にかられた行動が清水寺などの寺院を祀る事に繋がったのだと私は考えます。

 

そして、阿部と縁のお寺を坂上田村麻呂が建立していたということは、阿弖流為はやはり阿部一族に関係していると考えられるのです。

 

 

阿弖流為の名前は、「大墓阿弖流為」と表わされており、読み方を変えれば「おおばか・アテルイ」とも読めるのです。

 

中央に居て権力を手にするよりも、奴隷の如く土着の民達(蝦夷)を服従させようとする朝廷に対して民に加担して利得もないにも関わらず、土着の民達の為に命懸けで共に反旗を振ったために付された愚か者と称する当て字かも知れません。

 

または「大墓」の表記からは、阿弖流為の先祖が大きな古墳に埋葬されている一族の一人であることを表したものとも推測できます。

 

いずれにせよ朝廷軍10年以上もの長きに亘り戦い続けられたことを考えると、それだけの武器や資金など武士を統率するだけの力が無ければ叶わなかったことと言えます。

 

つまり、阿弖流為阿倍一族の一人であり、その財力を受けていたと考えられるのです。

 

京都清水寺には多くの人々に知られていませんが、阿弖流為母禮の鎮魂碑が建立されているのです。

 

 

坂上田村麻呂の強い無念の想いが伝わってきます。

 

話しを戻すと、阿部の先祖が刀を献上したその寺は、記録によると明治時代に焼失して多くの資料が失われたとありました。

 

明治時代というと「廃仏棄釈」の令によるもので消された可能性もあり、何だか残念に思います。

 

この「廃仏棄釈」令によって日本中の寺院や仏像、石仏などは壊され、日本の寺院が半分以下と成り、多くの国宝級の建物や仏像が失われたと記録されています。

 

廃仏棄釈の本当の目的と裏にあるものは・・・。

 

そして何故、阿倍奈良から東北に移り居るのかと抱いた疑問に対して、先日ブックオフで手にした中古書籍「黄金の国平泉」にしっかりと書かれていました。

 

 

一生懸命調べることもなく、思うとその答えに自然と巡りあい、知り得ることが出来るので、この点に関しても不思議でなりません。

 

 

本当に目に見えぬ力が導いている様に思えるのです。

 

 

少しの怖さと興奮を覚え宮城県の従妹に電話をしたところ、焼失した銘刀の他には本家の蔵にメノウの宝玉があると聞かされました。

 

しかし、その蔵も災害復興事業の一環で年内には取り壊すと聞かされた為、急遽、会社に有給休暇の申請を出して宮城県へ行く事にしました。

 

 

平将門公から閃きを受けるまで全く知る由もなかった阿倍の祖について実は自分がその阿倍の末裔であることも分かり、もぅ信じられません!!!

 

とにかく宮城に行って本家の土蔵を確認することと、銘刀を献上したお寺の住職にお話を聞かせて頂ければ更なる新たな発見があるものと信じています。

 

 

師走の忙しい時期に顰蹙ものですが、宮城県に行ってきます!!

 

想い導かれるままに・・・。

 

自分がやりかけた仕事を

 一歩ずつたゆみなく進んでいくのが

   不思議な事だけれど、

この世の生き甲斐なんです。

                   いわさき ちひろ