(NHK大河ドラマ・炎立つ)
岩手県・鬼剣舞
『白河以北ひと山百文』(作詞・作曲・歌/吉川団十郎 編曲/打越浩平)※みちのく古代史DVDより
奈良県桜井市・阿倍(安倍)文珠院・国宝:渡海文珠像
福島県田村市船引町・alltamura.TVより
(安倍貞任と源義家の絵図)
平泉FAN-TVより
この物語も編纂がみられるように私には思えます。
私に降りてくる閃きによると安倍貞任公は藤原氏の娘を略奪婚と話されていますが、藤原氏の娘は藤原氏の欲望による策略の為に嫁がせた策略婚であると考えます。
そして、藤原氏に命を受ける源氏としては安倍氏へ争いを決起する為の大義の一つの口実に略奪婚としたのです。
源義家公の父、源頼義や清原武則は欲に心を奪われ武士道から外れた者達であったのでした。
源頼義と義家公が戦いで追い詰められた時、掲げていた旗に降りだし雪により白く染まったのを見て、貞任公は戦いをやめて引き返します。
安倍氏は武士道に外れた戦いを最後まで行わず、正々堂々と戦ったのでした。
義家公はその恩義を忘れず、安倍貞任公が危機的な状況下で在ったとき詩を読み、戦いをやめて借りを返したのでした。
平泉FAN-TVより
安倍貞任公の異母兄弟で三男の弟、安倍宗任氏は都に連れていかれ、菅原道真と同様にその後は九州の地へ流されました。
生き残っと三男の宗任公は年を経て山口県の地に居住地を移し、源義家公の家臣に成り下がったようです。
九州地方や中国地方に安倍(阿部)ゆかりの地や神社があるのは、安部宗任公の残した足跡なのでしょう。
安倍氏は、もともと日本古代からの豪族で、阿倍比羅夫公をはじめ、阿倍仲麻呂公の同族なのです。
位は「臣」で、安倍晴明公とも血縁なのです。
(穂高神社・安(阿)倍比羅夫・像)
阿倍氏は堕落して欲による争いが行われる京の都から離れ、東北の地で中国との貿易や金の産地として土着する蝦夷と呼ばれた人々を護り、共に協力し合い栄えたのでした。
しかし、京から出た阿倍氏を位の低い「安」を用いて安倍と姓を変えて蔑み、呼んだのでした。
後世に東北の人々を貧しく、田舎者とレッテルをはったのは大和朝廷の時代から意識付けられたものなのです。
(安倍文珠院・奈良県桜井市)
阿部(安倍)一族所縁の地、奈良県桜井市
(奈良県桜井市PR動画)
(安倍貞任・絵図) (奈良県桜井市・安(阿)倍文珠院・国宝)
一ノ倉平泉講座より
(安倍貞任・像)
明治時代は「日本書記」を編纂した藤原氏と同じ様に、古代の正当な歴史を隠そうとした時代であり、それは「廃仏毀釈」にもみられます。
平安時代に描かれ絵巻をよくよく見ると、貞任公の袖柄は嵯峨天皇(父は桓武天皇)が好んで用いたとする九曜菊紋です。
そして、貞任公が手にする扇子は、現代の皇室で用いる旗の配色と同じものです。
奈良県明日香村阿部山にある亀虎(キトラ)古墳の埋葬者も阿(安)倍氏です。
東北の阿部(安倍)氏は、現代に脈々と続く天皇制度と律令国家と成す礎を築いた一族なのだと私は考えます。
【「炎立つ」巻の参 空への炎より(高橋克彦著)】
「義家、うぬが参ったか!」
貞任はぐるりと馬の首を義家に向けて対峙した。
と言っても互いの間は相当にある。
「ここで会うとは神の導き、厨川への手土産にうぬの首を持参いたそう」
貞任は坂道をゆっくりと下がりはじめた。
が、義家の背後に五十近い騎馬兵の従うを見て舌打ちした。
騎馬兵たちは即座に弓を構えた。
「衣川の館(たて)は滅びたり」義家は馬上から叫んだ。
「うぬらに焼かれたのではないわ。
衣も糸が弱まれば自然に綻びる。
勝ったなどとは笑止千万。
俺の首が欲しければ厨川に参れ!」
貞任は言い捨てると反転して逃れた。
「追うな!」
前に出た兵たちを義家は大声で制した。
「敵が坂の上に待ち構えておる」
目敏く義家は見付けた。
上に百を越える騎馬兵が松明を片手に貞任を待っている。
襲って来るかと思ったが、敵に動きはなかった。
<あくまでも衣川での戦いを避ける気か>義家は安堵の交じった溜め息を吐いた。
坂の上と下で両軍はしばし睨み合った。
やがて、義家は後退を命じた。
~康平5年(1062年)9月6日深更、衣川の関が破られた場面より~
わが国の梅の花とは見たれども
大宮人はいかがいふらん
安倍宗任