何かを学ぶ。

何かを知る。

何かを得る。

 

 

今までのわたしは「それ」が望みだと思っていた。

 

で、しばらく経って気づいたことがある。

「それは、学びを玉座に置いているんじゃなかろうか」

 

誰かを知ると、一気にいろんなものを読まずにはおれない。

その人が動画なんぞ挙げていようものなら、隅々まで見なくては気が済まない。

 

それはそれでとっても楽しいし、没頭できるし、めちゃくちゃ学びになった。

 

 

 

でも最近ね。

「緩むこと」を覚えたの、私は。

 

 

 

どんな自分にも100パーセントを出して

どんな自分にもOKを出して

 

何がどうあっても、自分の世界の王様は自分。

 

それが今更ながらやっと腑に落ちて、それを中心に据えて生活し始めると、今まで見えていなかったいろんなことがわかってきた。

 

 

 

生き方全てが、私が中心になると、ものすごい小さなことまで、いちいち玉座を譲っていたんだな、ということがわかり始める。

 

 

いちばん顕著なのが、冒頭の学びのこと。

ある時「ああ、HTLの2期が始まる前に、今まで聞いてなかった音声聞かなきゃ」と思った時、ふと我に返った。

 

「聞かなきゃ」とか「見なきゃ」って、なんなんだろう、と。

 

 

それって「聞きたい」ではないし「見たい」でもない。

つまりは、自分で勝手に義務化していて、自分で勝手に自分に課題を押し付けているようなものなのだ。

 

 

なんでも取りこぼしたくない、と思うのは、雑にいろんなものを詰め込んでいるのと同じこと。

必要なものは、必要なタイミングで、ちゃんと自分が選んでいる。

眠かったら寝ていい。

気分じゃないならやらなくていい。

 

 

そこに気づいたら「うわ、あの動画見なきゃ」とか「ああ、あれやらなきゃ」と思うことが激減した。

 


 

 

全てを私が選ぶって、こんなにも自由なんだ。

 

「◯◯だからこうしなきゃいけない」なんて、見えないロープで自分を縛って、自分に鞭打ちまくっていたのは自分でした。

 

 

 

私が全てのタイミング。

動画が見られない時は、その動画は見なくていいってこと。

 

私が全ての基準。

見たいと思った動画だけ、ただ見ればいい。

 

 

私が私の世界基準。

 

 

 

 

 

何をしても自分に許可を出すことを覚えてから、マイスタンダードが変わりました。

私たちは環境にどうしても自分を寄せていく癖がある。

 

 

私はとにかく体力がない。

疲れやすい。

そして運動が嫌い。

 

それをなんとか克服しようとすること自体が間違っていたことに、45になってやっと気づいた。

 

 

これが私のスタンダードなんだもの。

これが私の初期装備なんだもの。

 

だったら、この体で最大限パフォーマンスできるように環境を合わせてしまえばいいんだ。

 

 

私はショートスリーパーなので、夜に長い時間眠れない。

だからまず、昼間にめちゃくちゃ寝ることを自分に許可した。

 

ちょっとでも疲れたり、ちょっとでも頭痛がしたらもうその時点ですぐ寝る。

 

そうすれば、自分のパフォーマンス能力がめっちゃ上がるのだ。

 

あとは、もう人生全般でずっと問題としていたダイエットについても同じで、自分を否定し続けていたら絶対に絶対に絶対に痩せない。

否定からスタートするダイエットは、全て力技だった…

 

だからもう「なんでも食べていいよ」と自分に許可した。

これって死ぬほど怖いことなんだよな…

だから毎回毎回、ドキドキしながら、でもドキドキする自分にも許可を出しながら、食べたいものはなんでも食べさせるようにしている。結果はどうなるかはまだ観察中。

 

これ以上太りたくない…でも、それ以上に、これ以上自分を傷つけたくない。自分を責めたくない。自分に厳しくしたくない。

 

 

 

 

自分を許すよりも、自分に厳しくしていたほうが、最初はきっと楽チンなんだと思う。

やることが力技だけで、単純明快だから。

 

でもそれ自体がどこまでも「今のままのお前じゃダメだ」というエゴを増長させていく行為なんだ。

やればやるほど、自分を責め続ける。

 

そしてできなかった時の「お前はやっぱりダメなんだ」という自責モード。

「お前は何もできない」という無力感。

 

 

 

 

もうあの、どこまでも自分を追い詰める日々はおしまい。

私が中心で生きていく世界って、なんて素晴らしいんだろう。

 

 

さて私の世界は、どんな風に変わっていくだろうか。