『将門の首塚』のミステリー | misaのブログ

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大変長らくお待たせ致しました。

「飛鳥昭雄氏と行く東京ミステリーツアー」報告。

次なる場所は、『将門の首塚』です。

まずは、平将門さんについて。

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将門は、平安時代中期の関東の豪族で、桓武天皇5世にあたります。

平安時代の末頃、朝廷は地方の政治を国司にまかせっきりにし、世の中がひどく乱れていました。

もはや国の力だけでは、地方の治安の悪化を鎮める力はありませんでした。

様々な人が武装し始め、何度も同じ地方の国司となった中・下級貴族が、その小武士をまとめていきます。

平将門の祖父・高望王は、天皇から平氏の姓を授けられて上総の国の国司として赴任し、勢力を拡大して武士団を形成していきました。

強大な勢力を手に入れていく平家でしたが、平将門の父・良将が死ぬと相続争いが起こります。

935年、同じ関東地方に住み着いた叔父と土地をめぐって争いを起こし将門は叔父を殺害しました。

そして、939年には将門と対立する従弟・平貞盛の引渡しを常陸国府が断った為、将門は常陸国の役人と争いを起こすのです。

平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、将門は、東国の独立を目論んでいきます。

関東八カ国の国府を次々に攻撃し、国司を追放した将門の威勢と名声は関東一円に鳴り響いていました。

そして、関東を手中に収めた将門は、京都の朝廷の朱雀天皇に対抗して自らを「新皇」と名乗ります。

もはや朝敵となった将門を、朝廷が放っておくわけはありません。

藤原忠文を征東大将軍に任命し、鎮圧の為に派遣するのです。

しかし、朝廷軍が到着する前に将門は、地元の武士の藤原秀郷・平貞盛に即位後わずか2か月たらずで討伐されてしまうのです。

飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死したと伝えられています。

これと時を同じくして、瀬戸内海では藤原純友が海賊を率いて反乱を起しており、源経基らによって鎮圧されていました。

この「平将門の乱」は「藤原純友の乱」と共に『承平・天慶の乱』と呼ばれています。

★★★

そして、その後がミステリーの始まりなのです。

戦さの後、将門の首は京の都へ運ばれ、見せしめのために七条河原で晒し首にされるのです。

天慶3年2月14日(940年3月25日)のことでした。

『獄門』が歴史上で確認される最も古く確実な例が、この将門だと言います。

晒し首となった将門の首は、何日たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたそうなんです。

一方、首を失った将門の身体の方も戦意を失わず、首を求めて暴れまわっていました。

将門の身体を祀る『神田明神』は、幕府の守護のため江戸城の鬼門である現在の場所に移されましたが、カンダはカラダがなまったものだと言われています。

そして、将門のさらし首は、自分の身体を求めて関東を目指し空高く飛び去り、途中で力尽きて地上に落下したとの事です。

その落ちたところが大手町で「将門の首塚」として祀られています。

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そして、その後更に将門の祟りと怖れられるような出来事が次々と起こって行くのです。

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1923年

関東大震災で大手町一帯は瓦礫の山に。そこで国は首塚を取り壊し土地を整理し、大蔵省を立てる。

ところがそれ以来、大蔵省で役人に病人が続出し、大蔵大臣はじめ幹部14人が相次いで亡くなる。

その為、将門の怨霊の噂が広まり、事態を重く見た大蔵省は、建てたばかりの庁舎の一部を取り壊し首塚を復活させた。

1940年

雷による火災で大蔵省の庁舎が全焼。

「首塚をおろそかにしているから」という声が再びあがり、大蔵省は将門のためのイベントを企画し、塚に古跡保存碑を建立。

1945年

日本に進駐してきた米軍が首塚の周辺を駐車場にしようと計画。首塚の整地工事を始めた。

年の暮れに工事を開始したのだが、首塚を解体しようとしたブルドーザーが突然、横転。日本人作業員に死者が出る。

地元の人がマッカーサー司令部に将門の怨霊の話をし、塚の撤去は中止される。

高度成長期には、国が首塚の周囲のごく一部だけを残し、土地を金融機関に売却。

塚の参道の土地には日本長期信用銀行が建てられる。

すると塚に面した部屋の行員が次々と病気にかかる。

長銀は神田明神の神官を呼び、盛大にお祓いをするも、2000年(平成12年)には長銀そのものが破綻してしまう。

★現在では隣接するビルは首塚を見下ろすことがないよう窓は設けていない。

また、首塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている。

★爆笑問題の太田光はブレイク前、この首塚にドロップキックをしたことがあり、その後しばらくは仕事が全く舞い込んでこなかったと言う。

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このように、祟りを信じないではいられない事態が次々と起こっているのです。

私たちが訪れた日、首塚の周りのビルはあちこち解体工事が行われていました。

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落下物を防止する為、首塚の上には屋根が↑

しかし、将門の首塚を大事に信仰すれば守り神となるともいわれています。

「呪詛」の力をうまく利用し、江戸を繁栄させたのが徳川家康です。

徳川家康は、天台宗の大僧正・天海による「風水」の力を信じており、数多くの建物の配置を決め、鬼門を封じる手立てを講じています。

その中の一つが「平将門の呪いを封じる結界作り」でした。

鳥越神社
兜神社
将門首塚
神田明神
筑土八幡神社
水稲荷神社
鎧神社

将門の力を結界で封じ、守り神として江戸の繁栄を願うため、この7つの将門にまつわる神社が建設されています。

この7つの神社は「北斗七星」の形に配置されているのです。。

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徳川家康と江戸、そして現在も東京が長期に渡り繁栄しているのは、将門の力なのかも知れませんね。

私は20代の頃、大手町でOLをしていましたが、道を一本越えた向こうに将門の首塚がある事を知りませんでした。

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こんなすぐ近くで働いていたのですね。

さらに飛鳥さんは、将門は茨城を治めていた事から、鹿島神宮とも関わりがあり、3.11の時にプレートの動きが鹿島・香取神宮の「要石」のおかげで食い止められた事と、東京の街が「将門の首塚」によって守られた事は関係があると話されていました。

だから、「将門の首塚」に何かあったら、東京は壊滅するだろうと。

高いビルが建ち並ぶ一角に、今も訪れる人が絶えない「将門の首塚」。

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東京に住んでいらっしゃる方は、一度は将門さんに会いに行って、東京を御守り下さっている事に感謝の気持ちを伝えてきてください。

お次は、首塚からすぐ近くの「皇居」に向かいます。

続く。。。

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