「ユース代表MF、京都加入」


そんな内容の記事を目にしたのはいつだったか。
その年の終わり、神戸戦で初めて西京極を訪れ、「来季からちょくちょく見に行ってみようかなぁ」と思い始めていた頃。
その頃は自分にとってサッカーはまだまだプレーすることが中心で、見ることも好きではあったけれど、そこまで熱心でもなかった。たまに観に行ってみたら面白いかな、くらい。だから何故その記事が気になったのかはよく覚えていない。

J2降格の決まったチームに加入する期待の若手。
高校選手権には出られなかったけれど、直前のU-18代表遠征では背番号「10」を背負っていた選手。
きっとすぐに主力になるんやろう・・・あまり多くの選手を知らなかった俺はそう思っていた。
京都の「王様」として君臨し、順調にフル代表まで行ってくれたらいいな、とも。
同じ鹿児島の高校から京都に加入し、その時アテネ五輪に向けたチームで背番号「10」を背負っていた選手に重ねていたところもあったかもしれない。


彼は京都では背番号15を付けることになった。
ありふれた番号で、これといった特徴の無い番号。
背番号15を付けた名選手、だなんてパッとは思い出せないくらい。
京都でも毎年のように付ける選手が変わっていた番号。
そこまで大きな数字でもないし、期待のルーキーに与える番号ならほどほどなのかもしれない。
ここから一桁の番号であったり、10番などの「良い番号」に変わっていくのだろう。


彼は高卒ルーキーながら、それなりに出場機会を得ていった。
でも、正直なところあまり印象に残っていない。
記録を見てみると1年目の4月から試合には出ていたようなのだけれど、毎試合チェックしていたわけではない俺との巡り合わせは悪かったのかもしれない。


しかし8月、彼を見るチャンスが訪れた。
エコパで行われたフル代表のアルゼンチン戦を観戦することになり、同じ時期にSBS杯が行われることを知ったのだ。ちょうど時間もあったこともあり、見に行くことにした。
彼も代表メンバーに選ばれていたし、ユース代表の主力として京都の代表として良いプレーをしてくれるだろう、という期待を持っていた。


藤枝総合運動公園のピッチには、レギュラーとしてトップ下に背番号「10」がいた。
10番は精力的に動き、ゴールも決めたように思う。

でもそれは、彼ではなかった。

そのチームの攻撃の中心は背番号10を付ける兵藤慎剛であり、直前の選手権でも活躍した平山相太であり、カレン・ロバートであった。他にも、森本貴幸が台頭してきたときでもあり、中盤には梶山陽平もいた。
彼もまずまずのプレーはしていたものの、絶対的な主力ではなく、メンバー生き残りを争う選手の一人。そう思えた。

アジアユースには出場し得点も挙げたものの、トップ下が主戦場である彼にはライバルも多かった。
結局負傷の影響もあり、下の学年から本田圭佑や家長昭博らが上がってくるなど激化した中盤のポジション争いに勝ち残れず、ワールドユース本大会に出場することは叶わなかった。


ポジションの制約は、京都でも同じだった。
フラットな4-4-2で戦うことの多かった柱谷幸一監督率いる京都では、彼を組み込める場所が限られていた。
技術は高いものの、消える時間も多い。スピードに秀でるわけでも、ドリブルで突破していけるタイプでもない。守備はほとんどできなかった。
鮮やかな得点を挙げる試合もあったが、「期待の若手」から抜け出せず、伸び悩んでいたと言ってもいいかもしれない。


転機になりそうな出来事は2007年に訪れた。
美濃部直彦監督に代わって加藤久監督がシーズン途中に就任。
広島との入れ替え戦で3-5-2を採用した京都のトップ下には彼がいた。

ボールを受け、渡邉大剛・中谷勇介の両翼に散らし、ゴール前に侵入していく。
得点はならなかったが、ホームでの第一戦、クロスバーを叩いた左足ボレーシュートは、何故かよく記憶に残っている。

同じ週の終わりに行われた第二戦。居ても立ってもいられず、夜行バスで広島に向かった。
初めて関西以外でのアウェーゲームに行ったことになる。
ヒリヒリするような試合をスコアレスドローで耐え抜き、昇格を果たした京都。
彼にとっての2007年は、必ずしも出場試合の多いシーズンではなかったが、入れ替え戦を戦い抜いた自信はあっただろう。


この手応えを元に成長し、J1でも彼の活躍が見られる。


でも、そう上手くは行かなかった。
大型補強を敢行した京都において、彼はまた、「期待の若手」という位置づけに戻ることになる。
守備力の向上のために練習試合ではDFとして起用されることもあり、依然として不安定なプレーぶりに終始していた。


2009年、実は少しだけ覚悟していた。
この年もやはり出場の機会は限られていて、プロ6年目に入った彼の来季の契約は危ないのではないかと。
また、様々な事情によって俺自身も観戦できないことが多くなっていて、降格争いを繰り広げている京都にやきもきもしていた。
そして迎えたのがホームでの浦和戦。
この日も西京極には行けなかった俺は、速報を頼りに試合展開を追いかけていた。

「京都1-0浦和」

得点者に記載された彼の名前を見て、本当に嬉しかったことをよく覚えている。
クロスに対してファーサイドから突っ込んで頭で押し込んだゴール。彼らしくないゴールでもあり、それこそが良い兆候とも言えた。
彼は2010年もプレーすることになった。


迎えたシーズンはチームは攻撃的な変化を付けようとしものの、バランスを欠く試合を続けていた。そして彼にとって2回目のJ2降格を味わうことになる。
ただ、彼はようやく主力としての立ち位置を確保し始め、磐田戦ではその後も語り継がれるような鮮やかなループシュートを沈めた。
ただ惜しむらくは、またも俺はそれを見られなかったことだ。


J2に降格し、京都は大木武監督を迎えた。
これが彼にとっても大きな転機になった。
前年の主力選手が多く移籍したチームにおいて、彼はもはや「期待の若手」ではなく、年長の選手の一人となっていた。
ショートパスを主体とした戦術の中では、彼の技術は活きやすかったし、プロになってからやってきたものとは異なる戦い方に新鮮味もあったろうか。中盤に定位置を掴み、トップ下やサイドハーフとして常時出場。
また、極端な守備戦術を取るチームになって、ある意味で分かりやすかったことも助かった側面もあったが、それまでに守備的なポジションを経験してきたことがここで活きてもいたと思う。
いつしか軽さは消え、攻守に走り回り、奮闘できるプレーヤーに彼はなっていた。

腕章を巻く姿も様になり、元日に国立のピッチに立ち、カップを掲げることはできなかったが、ゴールを挙げた。


2012年も同じように腕章を巻き、J1昇格に向けて戦った。
これまでの位置から一列下げてボランチでのプレーが主になったものの、さらに攻守にレベルアップした姿を見せ、キャリアハイの6ゴールを記録。
中盤の位置で攻撃の起点となり、前線に飛び出してシュートを放ち、若い時には考えられなかった献身的な守備で中盤を引き締めた。

選手としての絶頂期を迎えた。
紛れも無く京都の中心選手になっていたし、欠かせない選手になった。

それでも、運は彼に味方しなかった。

J1昇格には届かず、それどころか膝に負傷を負い、手術を受けることになった。
そのせいで2013年は出遅れ、やや精彩を欠くプレーが多くなってしまった。
チームも再びプレーオフで敗れ、大木武監督は退任。


2014年、指揮官交代から低迷するチームにあって、彼は再び攻守に走り回り、チームを引っ張ろうと奮闘した。
工藤浩平・田森大己と組む中盤でようやく最適なバランスを見出だせそうになっていた矢先、再び、膝に傷を負ってしまう。


手術・リハビリを乗り越え、再びピッチに立とうとする戦い。
今年に入り、全体練習に復帰したことや、練習試合で少しプレーしたことを伝える記事に喜び、また西京極で彼を見られる日を心待ちにしていた。
試合を見ていても、インサイドハーフに彼がいればとどうだろうかと考え、今季は難しくとも、来季なら・・・と。
しかし、練習試合に出場することもなくなり、別メニュー調整に戻ったことも耳にした。


そして彼は、スパイクを脱いだ。


12年間、いろんなことがあった。

京都というチームを追いかけるようになり、スタジアムに通うようになった。
チーム名が変わった。
2度の昇格と降格を味わった。
J1だけでなくJ2の残留争いも経験した。
元日をスタジアムで迎えた。


ピッチ外でも楽しませてくれた。

コワモテな風貌の癖にやたらとゆるいブログはこっそり楽しみにしていた。
「1週間連続更新する」って言ったそばから全く更新されてないブログは、きっと飽きたんだろう。
突如としてパグにハマりだし、ツイートやブログを見る限りでは本当にサッカー選手なのか怪しくもなっていたりした。
結婚なんて言うから愛犬の話かと思ったら彼本人の話だったりもした。
若い時からよく金髪にしていたが、似合ってると言って良いのか今でも判断はつかない。
かと言って黒髪にすると背格好が似ている選手が多いからか、スタジアムで見分けがつかない、とムチャクチャな文句を言ったりもした。
突然丸刈りにして唖然とさせてもいた。


もちろんそれ以上にピッチ内で楽しませてくれた。
精度の高いボールコントロールとパスワーク。
ドリブルで抜いていくことは少ないが、良いパス出しを支えるワンタッチの持ち出し。
中盤から飛び出して放つシュート。
特に浮き球をインパクトする技術が高く、印象的なシュートやゴールの多くはボレーシュートだ。
年齢を重ねて、守備面も大きく向上した。


本音を言えば、当たり前ながらもっと彼のプレーを見ていたかった。
現役を退くときは京都で・・・と思っていたけれど、こんな形になるなんて思ってもいなかった。
負傷に苦しまずに、もう一度楽しそうにプレーして欲しかった。
できるなら、新しいスタジアムでも彼を見たかったし、昇格を決めるピッチには彼が立っていて欲しかった。

ワールドユースにも出られなかったし、オリンピックにも、フル代表にも縁がなかった。
12年前に思い描いていたような未来ではなかったかもしれない。
こんな幕引きは、特に彼にとっては辛いものだったろう。


それでも、この12年間を充実した期間と捉えてくれてたらいいなと願う。

また、第二の人生も実りあるものになってくれたら。
膝を治し、新スタジアムのこけら落としあたりでレジェンドマッチでもやってもらって、またあの似合ってるか似合ってないんだか分からない金髪をなびかせ、もしかしたらちょっとふくよかになってるかもしれないけど、鮮やかなボレーシュートを決めてくれたら。


もうひとつ、12年前に思っていたことと違うことがある。
彼はずっと、同じ背番号を背負っていた。

ありふれた、これといった特徴のなかった番号は、いつしか特別なものになった。


12年間の現役生活、お疲れ様。そして本当にありがとう、中山博貴。