風邪一週間治らない。リハビリも月曜行ったきり、木曜に歯医者にいったぐらいで寝ていたのに。

こんな弱くなった体と心に今は亡き両親の事を思い出す。


ちょうど、19年前の1月12日は、母親の四十九日の満中陰だった。

法事は、松の内が開けた、前倒しの8日の日曜の済ませていた。


そのちょっと前に、四天王寺さんから、1月12日に、《生身供》の法要の催し参加の知らせが往復ハガキで届いていた。

こちらには、父の若くして亡くなった弟の供養などしてもらっていて、家族や親戚とも何度かお参りをした事がある。

だから名前が登録されていて、ハガキが届いたのだろう。


《生身供、しょうじんく》

なんの法要かわからないが、奇しくも母親の四十九日と同日。


参加費用お一人様五千円、父と二人で参加してみた。


四天王寺は、聖徳太子にいわれがあるお寺で今年一年も無事食べ物に困らないというような法要だったと思う。

『太子二歳まいり』というのもある。

数え年二歳になったらお参りするのだろう。

父はその頃、認知症の症状が出て数年経っていて、母親が亡くなり、より認知症が進んだようであった。


その時は、わからなかったが、父は、30年余り連れ添った配偶者に死なれ、それに加えて、自分の認知機能が衰えて、不安でたまらなかったのだろうと今になって思う。



四天王寺に行くため、一緒に電車に乗ると、地下鉄の扉の頭上にJRの(大阪、京都、神戸の三都物語)賀来千香子さんの広告が載せてあった。

父は、賀来千香子さんの広告をみるなり、『あの子、はび(私)にそっくりやな!よぉ~似てるわ』と言う。

私は、JJモデル時代の表紙を飾っていた頃からの賀来千香子さんの大ファン。

優しそうなスタイルのいい、お姉様に憧れたものだ。

お父ちゃん!嬉しいことを言ってくれるなぁ~!

まさか、認知症の父が、おべんちゃらを言ったとも思えず。

ここは、父の言葉をありがたく受け取ろう。

《あまり似てませんが、ここは、お正月なので多めに見てくださいね!》


父親には昔から、いっぱい嫌味など言われてイジメられて来た私だけど、この言葉は、嬉しかったなぁ。

四天王寺では、法要の後、お昼のお膳が付いていた。

精進料理なので質素であった。


雑煮もついていたが、私たちの席には、配り終えて時間がたった冷めた雑煮だったのが残念。

使ったお箸入れには《氏名》と余白があり記名するようになってた。

父は、これを自宅に持ち帰り、余白に自分の名前を書いていたのには、笑ってしまった。

まだ、父の机の引き出しに大事にしまってある。

『はび、来年も行こな!』と言っていた父。久しぶりの電車に乗っての外出は、楽しかったのだろう。


そして、四天王寺さんでは、普段見ることができない庭園が公開され、父と共にお茶席で抹茶をよばれた。





父が子供の頃、被害の大きかった室戸台風があって、四天王寺さんの建物なら大丈夫だろうと大勢の市民がつめかけたらしいが、大型台風には勝てなかった。とこの時、父が言っていた。

お寺の境内、周りには、露店がたくさん並んでいた。

娯楽が少なかった時代、四天王寺さん参り。この露店の散策も楽しみの一つだったろう。


この辺りは、大阪の空襲を逃れた地域で歴史ある神社、仏閣がとても多く坂道が続く。文教地区で学校がとても多い地域でもある。

友達もこの境内にある高校に通っていた。運動場がなく、境内を走っていたとの事。

ここから、デパートのあるターミナル駅まで地下鉄で一駅、歩いても15分かからない。

でも今になって、なぜ60後半の父親に、アップダウンの激しい道を歩かせたのだろう。配慮が足りない自分。

しんどかっただろうに。
今の私なら、歩きたくない。


父と二人になって一度も日帰り旅行すらしなかった私たち。

もっと色々連れていってあげれば良かったとつくづく思う。



決して贅沢は、させてもらえなかったけど、新幹線や飛行機は、村の同級生の誰よりも早く乗せてくれた父。

海外旅行にも一ドル290円もする時代に、連れて行ってもらった。


もう一度、19年前に戻り親孝行のまねごとでもしたいと思う。



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