あの頃の事、記事に書いていたら色々思い出す。私もまだ若かった。
いや、今思えば父もまだ、若くて元気だった。

今まで通院していた信頼関係が築けなかった病院を離れ、個人のクリニックの泌尿器科医の往診の約束を取り付けた。

そして、初の往診をうけた。

ちょうどお盆前。自宅への地図はFax で送った。
車もすいていて案外、早く来れたみたいだ。

泌尿器科医は、年輩の看護婦さんを伴ってやって来た。

そのベテラン看護婦さんに開口一番、『わかりやすい地図やね。すぐわかったよ』と褒めてもらえた。

次も往診に来て下さるようでホッとした。


しかし次月、道は混んだようだ。

『クリニックからうちまでは遠い』と言われ、
認知症の父を何故自宅でみるのか?
施設に入れなさいと言われた。

そんな言葉に傷ついた。

医者というのは、地位の高い職業だからか歯に衣着せぬ言葉で言う。


施設に入れる選択肢は、まったく考えてなかった。

父は、事業主の長男として恵まれて育ったけれど、時代は物心ついた頃からずっと戦争していたそうだ。

戦中派。軍国主義の子供時代。

男子は、戦争に行くのが当たり前の時代を過ごしてきた。


そして少し上の世代は、南方や中国で若い命が…

そして、学窓たちが次々戦場へと送られた。

そして、父も海軍として、広島で3ヶ月あまり過ごした。
(この話は、詳しくまた書きたいと思う)

戦死を覚悟でこの家を後にしたと言う。

そんな苦労をして来た世代なのだ。


実の娘。ずっと過ごしてきたこの家。何にも気を使う事もない。


妻にも早く死なれ、せめて自宅で普通に、好きなように過ごさせてあげたい。



ただ、それだけ…




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