8月15日で、戦後69年が経とうとしている。

戦争を経験した人は年々少なくなり、戦場へ赴いた人は、もっと少数派になってきた。

うちの父が青年時代、軍国主義の下、徴兵制度が施行されていた。

20歳になったら徴兵検査を受けて現役として入隊。

次々と未来ある青年たちが戦場に送られ、兵隊不足で徴兵年齢が19歳になり、最終的には18歳まで繰り下げられたそうだ。

うちの父親は、最後の徴兵制の世代。

甲種合格。
父は、戦争末期の昭和20年5月、海軍として広島に赴任した。

(すべて父から聞いた話で私が間違って記憶している場合もあります)

2月生まれのせいか、父は同級生で一番遅く戦争に行ったと聞いた。

父の弟の話では、
『兄貴は、背が高くてシューとしてるから海軍やろな。とみんなで言うてたら、やっぱり海軍やったわ。
広島に行ってすぐ戦争終わったから、わりとすぐ帰って来た』

と、当時小学生だった弟は、命がけで戦争に行った父の事を他人事のように言う。


うちの近くに最大の標的になる施設があり、いつ大空襲が起きるかわからない。

父親自身も、大阪大空襲を真近で見てきた。
空襲を受けた所だけお昼のように明るかったと言う。


父の世代は、軍人教育された時代なので戦争に行くのは当たり前。


戦争末期の5月。沖縄戦が困難を極めた頃。

無敵の軍艦《戦艦大和》も撃沈してしまった。

もうこの頃は、本土決戦が叫ばれていたのだろう。

父は、当初の予定より早く召集がかかったという。


村人たちから村をあげて戦場に送り出された時、

一度自分の家を振り返り、

『あぁ、この家も見納めやな…』

と、戦死覚悟で旅立ったという。


『○○○雄くん万歳!』
と父の名前を呼ばれ、

村人からのかけ声に、我に返ったらしい。

《こんな弱気な事、言うてたらあかん!》
と、気を引き締めたと言う。


大阪駅まで二人の姉たちに見送られ、広島に向かったそうだ。


父の二人の姉たちの婚約者もそれぞれ中国と南方の戦場に送られていた。





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