水とwaterは違う?

 

                        ◇まゆつば国語教室 13

 

高校の現代文の教科書によく出ている話なので、ご存じの方も多いかと思います。知っている人はスルーしてください。
 
 「水」と「water」──日本語と英語の違い、というだけでなく、じつは決定的に大きな違いがあるんですよね。
意味の違い。
つまり、指し示す対象の違い、です。何でしょう???
 
 
 
  (^^;)  ( ̄▽+ ̄*)  (〃∇〃)  (;´Д`)  <(_ _)>  ('◇')ゞ
 
 
 
80度のH2Oのことを何と言うでしょう。
 
日本語 → お湯
英  語  →  hot water
 
英語ではhotという修飾語がつくけど、waterであることに変わりはありません。
でも、日本語では「熱い水」とは決して言いません。(科学分野では熱水鉱床とかありますが、日常語にはない)
 
つまり、日本語の「水」が「一定温度以下の液体状のH2O」を指し示すのに対し、英語のwaterは「液体状のH2Oすべて」を指し示すんですね。
「液体状の」と限定したのは、もちろん、個体なら「氷」「ice」、気体なら「湯気・蒸気」「steam」という全く別の語が存在するからです。
 
あ。「湯気」というのは「お湯が気体になったもの」という意味だろうし、「蒸気」というのは漢語だから純粋の日本語とは言えない。「気体状のH2O」については、日本人は「別物」という意識が弱かったようですね。
と、また脇道に入ってしまいそう( ̄□ ̄;)!! 戻ります。
 
 
水とwaterが違うのは分かったけど、で、それがどうした!
と思われる方もあるでしょう。
でも、これはじつは、すごく大きなことなんですね。だから、言語学が現代思想に大きな影響を及ぼした。
 
水とwaterの違いから言えることは、
 
1)ある言葉がどのような対象を指し示すか、カッコよく言うと、「言葉が世界をどう切り取って分類するか」は、各言語集団によって異なる。
 
2)各言語集団のやり方に「上下」があるわけではない。どんな分類法も可能であり(恣意的=勝手=であり)、基本的に平等である。
 
ということなんですね。
当たり前と思うかも知れないけど、古代から近代までの西洋思想を貫く「二元論」(世界を〇と×に分けるやり方)と相反するんです。
 
西洋を「先進国」、その他を「後進国」と定義し(「未開」とはなんと傲慢な呼び方!)、先進国が後進国を導いてやるのだ、という発想を根本から覆すんです。
 
「神」がぐらついたあと、西洋近代を支えていた「理性」への信仰が、フロイトらの「人間は無意識に支配されている」という発見で再びぐらつき、近代の英雄たる「科学」が、進んだ先の核兵器や環境破壊でゆらぐのとまさにシンクロして、この言語学の考え方が新しい“現代”の文化を生み出していくんですね。
文化相対主義とか、文化多元主義とか言われます。ものすごくおおざっぱですが。
 
言葉というのは、コミュニケーションの手段であると同時に、というよりさらに根源的には、「世界をどう認識するか」という、人間の人間たる根本を形作っているものです。
 
ほかの言語を学ぶというのは、「まったく新しい世界認識の方法を学ぶ」という、きわめて刺激的な冒険でもあるんですね。
(なんか、今回かっこいいぞ(^^;))