今まで書いてきた事をまず、メールと携帯に当てはめて考えてみよう。
まずメールなのだが、一番の問題点は「統計的確立的な状況分析 」で書いた、始まりと終わりの認識の発育だろう。
何気なく使っている携帯メール、少し考えてみて欲しい。
メールが着たら、すぐに返信、そんな作業を延々と繰り返す。
返信が遅れると、腹立たしく思えたり、何か意図があるかのように思えたり、早く返信しなければと言う焦りを感じたりしていないだろうか?
それは、メールは相手の情報が文字しかない為、始まりと終わりの認識が出来ないからだと考えられる。
「統計的確立的な状況分析 」で書いた実験の赤ちゃんが「タオルを拾う途中や、タオルを掛ける途中で映像を止めると、赤ちゃんは困惑して何度も画像を見直す」と言う行動と同じだと思われる。
それは「コミュニケーション能力の発育 」で書いた "7ヶ月の赤ちゃんでは「視線を追う」事はしない、つまり7ヶ月の赤ちゃんにとって「視線をそらす」と言う行為は、関係の遮断でしかない" と言う事にもつながり「メールの返信の遅れは関係の遮断として捉えられている」と考えられる。
この「視線」と言う物は、相手との会話などの時の視線の事だけではなく「集団的な視線」にも共通する。
つまり、集団的な視点の一方的な遮断は、孤立感を生む。
その集団的な視線を追う事が出来ない、分かりやすい表現が「空気が読めない」である。
人間の精神の成長は「始まりと終わりの認識」や「視線をそらす事は関係の遮断ではない」と言う事を繰り返し体験して成長して行かなければならないのだが、メールはその体験の量を奪う物と考えられる。
これが、人格が形成されていれば問題は無いが、人格形成以前では人格形成に問題が生じると思われる。
また、携帯電話とメールに共通する事に「相手の都合の配慮」と言う部分が育たない。
「実際に会いに行く」と言う行為では、その人が忙しそうにしていたら遠慮したり、相手に対する気配り(自己抑制)と言う物を覚えるのだが、携帯やメールにはそれが無い。
携帯電話やメールは自己中心的になりやすい。
自分が電話したい時に電話をし、自分がメールしたい時にメールをする。
それを繰り返す事でそれが当然の様に思ってしまう。
それは、自分が関係を遮断されたと言う孤立感のバランスを取る為に、相手を巻き込むと言う連鎖を続けていると言う事である。
それは、精神の成長を阻害し合っていると言う事でもあるのだが、本人としてはそれが「コミュニケーション」と思っている場合が多い。
しかしそれは「協力と分け合い 」で書いた未熟分け合い精神と、別離不安 の複合的要素が強く、それを一言で言えば幼稚性である。
そんな事を少年期等から繰り返していれば、精神的に未成熟なまま成長して行く事になると考えられる。
そう言った精神的未成熟が「アダルトチルドレン」ではないだろうか?