色々な自治体で「いじめ」に関する条例が出来ている。


さてさて効果は上がるのだろうか?

どれもこれも「いじめはいけません」的な内容ばかり。

先ず効果は期待できそうも無いな。


もっと相対的な視点に立たないと、いじめをなくす事は出来ないと思う。


例えば小野市のいじめ防止条例に「いじめ等の解決のためには、家庭、学校、企業、地域社会などの協力が不可欠であり、地域と学校との連携や地域住民の活力など市民の総力をあげて取り組み、市民と行政が一体となって市民運動を展開する。」とある。


まあ、もっともらしい内容ではある。


しかしこうした考えが間違いに思う。


行為はエネルギーの形を変えた姿である。

行為だけ禁止すればエネルギーは別の形に変わるだけ。


加速するロケットはどれだけ加速しても光のスピードには達しない。

光のスピードに近付けば加速エネルギーは質量に変わる。


その質量が巨大になれば物質は崩壊し重力だけが残る。


精神も同じなのだ。


例えば、親や周囲の期待は子供を成長させる推進力になり、その推進力が質量にもなる。

しかし、過度の期待は自重を支えられない質量となり崩壊を始める。


勉強も同じだ。


幼い頃から勉強を始めれば、ドンドン加速していくだろう。

しかし、限界点に近付けば加速は鈍化して行く。


親は鈍化した加速を更に上げようとするが、限界点に近付いて更に加速させようとすれば、加速エネルギーは質量に変化するだけ。


自重を支えられないほどに増えた質量は、他の形に変換しないと崩壊を免れなくなる。


その変換された形の一つが「いじめ」であり「非行」であったりする。

別の形に変換できずに崩壊した物が「精神疾患」であったり「自殺」であったりする。


こうやって書くと「いじめられて自殺するのは違う」と言う人が必ず出てくる。

それこそが「相対的な考え」の無い現われである。


いじめには自分、自分以外の人、社会の3つの要素があり、これらが相対的に関係し合い変化し合って成り立っており、普遍の物など存在しない。


何かを普遍にした時点で、他の物が変化を余儀なくされる。

変化を余儀なくされれば、また別の物に変化せざるを得なくなる。


いじめ条例には、親の変化を求めていない。

子供に加速度を与えるのは親であり、その親に加速度を与えるのは社会である。


親や社会を普遍とし、子供に必要以上の加速エネルギーを与え続ける限り何の問題解決にもならないと思うのだが・・・