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小論文の下書き

ひょんなことから小論文を書くことになったのだけど、
論文と思うと筆が進まないのでブログに下書きをすることにします。
テーマは「私がダサいと思うこと」だそうです。

はじまりはじまり。

「私がダサいと思うこと」を論ずるには、まず「ダサい」という言葉を定義づける必要があるだろう。これは「ダサい」が新語または俗語であり、語源は諸説あるようだが定かでなく、私自身においても、並行して幾つかの異なる意味合いが浮かんでくるからだ。
 例えば、茶色い煮しめのような風合いのジャケットがあったとする。肩パッドが過剰に盛り上がり、生地は祖母の家に敷かれた座布団とよく似ている。ダサいと思う。この場合のダサいは「垢抜けない」「流行遅れ」などと同意語で、製作者または使用者の美的感覚に対するマイナス評価である。
 先の例だと時代錯誤の色が強いが、最先端のアイドルの顔が全面に描かれたTシャツに、流行りの家電量販店の紙袋をハンドバッグ代わりに抱えていたとしても、同じ形容がなされるだろう。平たく言えば、メディアが発信するファッショントレンドやそれにまつわる情報をキャッチし取り入れているかどうかが境界線である。情報が乏しかったり、情報処理の成果が一般水準を下回ると「ダサい」という評価になる。比較対象は常に他者であり、その評価基準は非常に流動的だ。
 だからだろうか、時に「ダサかっこいい」「ダサかわいい」といった形容詞が用いられる。情報に掏れていないが故の「素朴さ」や、情報処理の成果として生まれた「多数派に迎合しない」という選択が、逆説的に評価されるケースだ。
 このように「ダサい」を「世間の一般水準に基づく他者との相対評価であり、流動的な評価」と定義したとき、私の主観による「ダサい」を論ずるのは困難だ。では、次のような場合はどうだろう。
 例えば、ある日突然、恋人に別れを告げられたとする。想定しない状況に取り乱し、公衆の面前で涙ながらに「別れないでほしい」と膝にしがみつく。このケースを自分に置き換えたら、ダサいと思う。振られた事実や相手にすがる行為そのものがダサいかどうかは定かではない。しかし、ごく親しい人の心情の変化を察知出来ず、最悪のケースを想定出来ず、なおかつ重要な場面で取り乱し、冷静な判断に基づく行動が出来ていないことが「ダサい」。つまり、本来「こうありたい自分」が描けているにも関わらず、実践出来ていないのが「ダサい」のだ。
 恋愛の例を挙げたが、スポーツでも仕事でも、映画やドラマや漫画などで、主人公が「ダセェな、自分。」とつぶやくのは、このようなケースではないだろうか。
 この場合の評価基準は自分の中の絶対評価だ。「こうありたい自分」は様々な情報・経験などから形成されるが、比較対象は常に「現時点の自分」であり、他者に置くことは出来ない。自分が理想とする自分に近づけているかどうか、またはそのための努力、行動を積み重ねているかどうかをシンプルに評価すれば良い。それが出来ていない、または足りていないが故に生じる問題を、思わず嘆く自分が「ダサい」のだ。
 このように、「ダサい」を「分かっているのに努力していない様」と定義するならば、私が思う最もダサいことは、自分の理想と向き合わないことだ。
 理想と向き合うというのは案外難しい。実のところ、私自身、理想という単語を使うことをためらった。「理想論」「理想主義」「理想が高い」これらの言葉はいつしか発信者に対するマイナス評価として用いられることが多くなった。理想は掲げ、振りかざすだけでは意味をなさない。だが、掲げてもなかなか達成できないことを、掲げずにどうしてなし得ることが出来ようか。
 自分自身の理想とする生き方、生活、職業、容姿、人間関係、何でもいい。「こうありたい自分」から逃げてはいけない。それはその人の心に自然とあるものだ。今とのギャップがあるならば、それを埋めるために努力し行動するのが人生だ。目を背けるのが一番ダサいと私は思う。
 志半ばで老いて、力尽きたとしても良いではないか。そのときには、自分自身の絶対評価において、ダサかっこいい老後が待っているかもしれない。

GREEN GREEN!

ある日 パパとふたりで語り合ったさ
この世に生きるよろこび そして悲しみのことを
グリーングリーン!

って歌、ありましたよね。

グリーングリーン!の軽快なリズムと
パパが言ったさ、みたいな語感がかっこよくて、
小学校の授業で習った曲の中で一番好きだった。
気球にのって~という歌も並ぶけど。

さて、子供心に、この歌が好きなのに、なんとなく怖い気持ちがあった。
だって、ある朝「僕」は目覚めてそして知るんですよね。
「この世につらく悲しいことがあるってこと」を。

「つらく悲しいこと」が、何を指しているのかをなんとなく感じとりながらも、
直視したくなくて知らんぷりしていた。
怖いくせに好きなもんだから、高速道路を走る父の車の後部座席で、
窓を少しだけあけてしょっちゅう歌っていた。
ドライブに似合うメロディだったんですよね。


時がたち、「この世に生きる喜び、そして悲しみ」を知った大人になって、
ふと思い出してグリーングリーンの歌詞を調べてみたら…

学校では教えてくれなかった後半に、「パパ」は遠い旅路へ出かけ、
「僕」は二度と帰ってこないと分かっていた。

…なんともストレートに、向き合っていた。
歌詞の中で「僕」はこぶしをかため、胸をはり立っていた。

こんなにも直接的な歌だったんだなって驚くと同時に、
グリーングリーンは怖い存在じゃなくなった。

子供の頃は未知で怖くて仕方がなかったことが、
経験に裏付けされ、自分の一部になり、享受できるようになる。

大人になるって意外と悪くないかもしれない。

そんなことを考えながら、
YOUTUBEのグリーングリーンを繰り返し聴いてみた休日。


その時 パパが言ったさ
僕を胸にだき
つらく悲しい時にも
ラララ泣くんじゃないと
グリーングリ—ン
青空には かすみたなびき
グリーングリーン
丘の上にはララ
緑がひろがる


パパは泣くな、と言いたかったんじゃなく、
この世には嬉しいことも悲しいこともあるけど、
前を向いて生きろよって、教えてくれたんだね。

破天荒こそ伝統。

そんな記事がネットから流れてきました。
歌舞伎界において、それは間違っていないかもしれません。

果たして彼は、破天荒だったのでしょうか。

中村勘三郎さん。
私が最も敬愛する人物の一人が逝去されました。

世界がすっと寂しくなった日として、今日の日を忘れないでしょう。

こんなことがここ何年は続きますね。
私たちの世代が追い求める大人たちが、
少しづつ次世代を叱咤しはじめているのだと受け止めています。

日本語が綺麗な人だと惹かれたのは、
きっと私がまだ中学生の頃。
大人になっていつしか歌舞伎座に足を運ぶようになりました。
そこで出会った生き様に、心奪われたことは記憶に新しいです。

芸の道を極める、すなわち仕事を突き詰めたとき、
その視界は水平線を見渡すほどに広がり、
それはいつしか世界を俯瞰したビジョンに変わる。

そしてビジョンを実行するプロセスがあまりに飄々としていたことは、
破天荒こそ伝統である歌舞伎の世界を投影しているのかもしれませんね。

惜しむ言葉は尽きませんが、もう一度、
新しい歌舞伎座で、振り絞るように演じるあなたに会いたかった。

いつしも人生とは、名残惜しいものばかりです。
だから愛おしいのだということも、歌舞伎が教えてくれた気がします。

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