アメリカで金庫の解錠理論を教える 2007年から2009年 | 田舎の鍵師(キーセンターくわな)・Wikipedia(不可思議探偵団の鍵師欄に)

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不可思議探偵団開かずの金庫
2010年開始・4回連続出演 以後現在に至る金庫シリーズの始まり

世界の金庫技師の教育プログラムで授業をしている写真
ALOA本部理事(国際地域代表)として活動(2008-2010)

(財)合気会支部道場(うたづ合気道倶楽部希の会・道場長)

今後「田舎の鍵師、孤軍奮闘して国際舞台に」をタイトルにして書き進めていきますが、本日は始まりとして序文を投稿します。

 

私はアメリカロックスミス協会本部が行う年次総会での教育プログラムで、金庫のダイヤルの解錠に至るまでの理論と実技を教えておりました。当たり前のことですが、もちろんすべて英語でしなければならなかった訳ですから大変でした。

 

私が担当した講座は2007年から2009年の3年間で今回の写真は2007年のもので講師として一番最初に関わったものです。

メインの講師は日系のアメリカ人、他に私と女性(メイン講師の奥さん)の二人がアシスタントの講師として三日間の講座を担当しました。

 

この講習だけでは資格は得られませんが、後日行われる資格試験のための講座ですから受講する人たちは真剣な態度で臨んでいます。資格は国際的に共通しており業界で就職する際に不可欠なものです。(残念ながら日本は含まれていません)

 

普通の講座はほとんどの人が申し込みをすれば参加できますが、この講座は参加のために以下の手順が必要です。

 

金庫のダイヤルを手探りで開ける技術と理論を習得するまでの教育プログラムですから参加すること自体が大変なのですが、まず受講するために書類が提出されそれらに基づいて第一段階で書類審査でふるいにかけられた後、受講する人が決まります。

 

受講出来る人達はこの世界で10年から15年程度以上のキャリアを持ち、最低限の金庫の基礎知識は備えていないとダイヤルの構造と解錠に至る理論が難しく実技を習得出来ないからです。それとロックスミス(Locksmith:鍵師)としてFBIに登録されていることも大事なポイントです。

 

金庫のダイヤルはクラス分け(5段階の難易度に分かれたダイヤル)されたものを最低難易度のものから開始し、講座を受けながら自力で開ける実技を行います。1日目、ほとんどの参加者は1個目のダイヤルを解錠するまでに至りませんので、ダイヤルをホテルへ持ち帰りそれぞれの自室で開ける努力をして貰います。

 

2日目は理論も理解出来るようになるので次の難度(クラス)のダイヤルに挑戦できる人たちがぼつぼつ目立ち始めますが、それでも最終日までに最後の5つめまでを開けられる人は1人もいません。理由としてそれぞれの難易度の違いは色々あるのですが、ダイヤル内部の構造が違ったり、トリックを仕掛けられたりしているためですから仕方がありません。講座と言いながら座っていただけでは役に立たない訳ですからそれぞれ受講者には厳しい内容です。

 

講座の前にメインの講師から私に基本的な方針を指示されました。

それは安易に誘導せず厳しくチェックしてくださいとのことでした。受講者の全員が地元に帰って金庫のダイヤルを手探りで開けられるようにするためなのですからね、と笑顔で。

 

私は長年通ったお陰で金庫の講座を数多く経験することができ、インストラクターの試験にもパスしておりました。(インストラクターになる時の話なども今後書きます。)

 

本来は世界にあるそれぞれの支部でまず何年かアシスタントインストラクターを経験した後、正規のインストラクターになりその後評価が高ければ本部の講師として推薦・採用されるのですが、私は本部の講師をしていた人(今回のメインの講師)の指名で任用されたのでとても珍しいとのことでした。

 

日本人として初めて(アジアも含めて)で、アシスタントとはいえ下積みを経験すること無く本部の講師になれたのですからとても栄誉なことに間違い有りませんでした。

 

下記の写真の中に講習を受けた人の修了証があります。講師のサインが下にありますが私はあえて漢字で名前を書きましたらとても喜ばれました。

 

また、アメリカでは当たり前ですが講座の後、受講者が無記名で講座の内容や講師に対する評価シートを作成して事務局に提出します。この評価が低かったり、クレームが申告された場合は講師の職に再度任用されなくなります。

 

これから書き進むのは、孤軍奮闘してまったく英語が喋れなかった「田舎の鍵師」の足跡です。滅多に経験できないような不思議ともいえるような半生を振り返ってみます。

 

時々にコメントにまじめな感想をいただけたらありがたいです。

 

1995年に初渡米後、英語も満足で無かった人間が米国協会本部の理事になったのは2008年から2010年であり、その年にテレビから声がかかり出演することになった訳ですから不思議です。大きな団体の後ろ盾も無くただ1人の人間が広げた人間関係がことをここまで作り上げたと言っても過言ではないように思います。

 

以上、序文と言いながらかなり字余りな内容で申し訳ありませんが、久しぶりに鍵師としてブログを書くことが出来嬉しいです。 桑名 隆