この文章における作者の意図を読み取りなさい | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】


というのが学生時代の国語の試験問題に頻繁に出てきたものですが。

実はわたし、この手の出題が大嫌いで「何で作者の意図通りに読んでやんなきゃなんねーの?」とかなり天邪鬼なことを思ったものです。まあ、試験なのでちゃんと答えはでっち上げてましたけど。

物語において、正確に言うなら物語が読まれる過程において、作者の意図というのはどの程度重要なのか。

もちろん、意図を持たずに書かれている物語は(たぶん)ないわけで、そういう意味では物語とは作者の意図そのものであるのですが。
しかし、果たして読者側にそれを作者の意図通りに読む義務はあるのか、と問われれば、これははっきりと自信を持って「ない」と答えることができます。

何の話かと申しますと、先日より真名さんとこちらこちらの記事のレスで交わしているやりとりのことなんですが、うーん、これは何と言えばいいのか、なかなか難しいところです。
本来、よほどのことがなければ書き手と読み手がここまでコミュニケーションをとる機会そのものがないわけで、だからこそ、これはあまり意識されない問題なのかなーとも思うのですが、ただ、声を大にして言っておきたいことは

「物語の解釈に正解はない」

ということですね。もっと噛み砕いて言うなら「物語は読んだ人が感じたことがすべてであり、それがその人にとっての正解なのだ」ということになりますか。
そして、もし作者がどうしても自分の意図通りに解釈して欲しい(プロットや展開の関係上、そこを違う解釈されたら物語が成立しないという場面は確かにあります)というのであれば、それは筆力を傾けてそうなるように描くべきであって、読者に自分の意図を「正しく読み取る」ことを求めるべきではないのです。

もちろん、世の中にはきちんと正しい答えが出ないと気が済まないという方もいらっしゃいますので、そういう方にとってはこういう曖昧な部分というのは我慢ならないかもしれませんけど、わたし個人としては自由な解釈を許してくれない(これはプロットにおいても人物造形においても、ですが)作品は面白くないだろうなと思いますね。同時に書き手としても読者にそれを求めたくありません。
ですから、わたしの拙い文章に感想を寄せていただくときに嬉しいのは、むしろ、書いている本人も気づいていなかったような解釈と出会ったときなのですよね。(もちろん、意図通りに読まれても嬉しいですが。笑)

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えー、現在「Change the world」のほうを粛々と書き進めております。
前作「Letters」に比べるとかなり向坂永一という人物の内面に踏み込むことになるので、書き手である真名さんの解釈による永一と読み手としてわたしが持った印象から再構成した永一の乖離の部分でちょっと迷いがあったのですが、この文章を書いたことで吹っ切れたような気がします。(笑)
わたしが描く永一はあくまでも二次創作者の解釈で、原作者とは異なりますが(志村の語り口をコピーするのとは難易度がぜんぜん違う……)それは平にご容赦願いたいところです。