「砕ける月」第7章 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
 小中学生の面倒を見たときはご飯を奢ってくれる、というのがアタシとジジイの間の取り決めになっている。
 但し、何を食べるかの選択権はジジイにあるので、必ずしもアタシが食べたいものが食べられる訳ではない。今日はジジイが無性にうどんが食べたいと言うので、わざわざ城南区まで遠回りして牧のうどんに行った。
 福岡のうどんは流行りの讃岐うどんと違ってコシのない軟らかい麺であることが多いが、牧のうどんは中でも異様に軟らかく、しかも麺がやたらとスープを吸うので油断すると食べている途中で膨れ上がってしまう。”食べても食べてもなくならない魔法のうどん”と言われる所以だ。ちなみにスープはお代わり(というか注ぎ足し)自由だったりする。あと、ネギも入れ放題だ。
「でもさ、うどんって女の子誘って食べるもんじゃないよね」
「ふん、わしより食っとるくせに何を言うか」
「老い先短い年寄りと、育ち盛りの十八歳が同じな訳ないじゃん」
「おまえは本当に年寄りへの敬意がないのう……」
 ジジイは”食べても食べても”を少しでも防ぐために固麺を注文したが、それでも麺を持て余していた。アタシは肉うどんにエビ天をトッピングした上にかしわおにぎりを頼んで、さらにジジイの丼から麺を三割ほど引き取っている。もちろんぜんぶ平らげた。
「ふー、食った食った」
「おまえ、そんなに食べて大丈夫か?」
「うーん、ちょっと足りないかも。帰りにマック寄って帰ろっかな」
「ああ、そうか……」
 催促したつもりはなかったがジジイは別れ際に千円くれた。もっともマクドナルドに寄るというのは冗談で、アタシはまっすぐマンションに帰った。
 福岡市内の高級住宅地といえば由真の家がある平尾界隈、大濠公園やアメリカ領事館なんかがある中央区の大濠近辺、そしてウォーターフロントのシーサイドももちということになる。
 中でも百道浜は一番新しいだけあって街並みも小奇麗だ。ランドマークはミシン針のような形をした福岡タワー。他にも福岡Yahoo!JAPANドームや隣接するショッピングモールのホークスタウン、シーホークホテル、ハイアットレジデンシャル、福岡市美術館、市立総合図書館、高層のオフィスビル群、RKB毎日放送とTNCテレビ西日本の二つのテレビ局、国立病院や福岡市急患診療センター、中国と韓国の領事館――挙げ始めるとキリがないが、要するに高級住宅地にあるべきものは何でもある。ないのは歴史と趣きくらいだ。その最たるものがメインストリートの名称で、かつてここで催された〈アジア太平洋博覧会〉の名をとってよかトピア通りという。
 アタシが住むマンションはそのけったいな名前の通り沿いにある。今では百道以外では見かけないデザイナーズマンションというやつだ。
 バンディットを駐輪場に突っ込んで、エレベータで最上階へ上がった。
 このマンションは三棟がコの字型に連なって建っているが、どういう訳かエレベータがエントランスがあるA棟にしかない。叔母の物件はC棟の一番端で必然的にエレベータから一番遠い。他意はない筈だが、住み始めた頃はそんな些細なことすら嫌がらせに思えたものだ。
「――ただいま」
 誰が待つ訳でもない部屋に投げかけるには相応しくない言葉。言ってしまうのは習慣以外の何者でもない。
 しかし、今日は違った。ふんわりと漂う柑橘系の残り香が鼻をついた。玄関にはアタシにはぜったいに履けないサイズのパンプスがちょこんと並んでいる。
「あら、お帰りなさい。早かったのね」
 奥のリビングダイニングのドアが開いて、高坂菜穂子が顔を出した。
 小さな輪郭に派手な造作を押し込んだ東南アジア系の顔立ち。小麦色というより浅黒いといったほうがぴったりくる肌の色。痩せぎすの身体を包む白麻のパンツスーツが色の黒さを余計に引き立てている。
 街を歩いていていきなりタイ語やベトナム語で声をかけられる、東南アジアに旅行に行けば現地の男性から求婚される、夜中に中洲を歩いていてパトロール中の警官に外国人登録証の提示を求められる――その手のエピソードに事欠かないことにこの女はいつも憤慨しているが、アタシに言わせれば全てむべなるかなという感じだ。どう見ても遅れてきたルビー・モレノのそっくりさんにしか見えないが、これでも大手門の福岡地裁近くに事務所を構える弁護士だったりする。
「……何だよ、いきなり来るなって言ってるだろ」
「失礼ね、ちゃんとメールしたわよ。見てないの?」
「知らねえよ」
 アタシはポケットに手を伸ばした。菜穂子はパソコン宛てだと言い足した。
 見てない筈だ。リビングの隅っこのパソコンデスクにDELLのデスクトップが鎮座してるが、残念ながら電源を入れるのはiPodに音楽をダウンロードするときだけだ。
「ねえ、少し痩せたんじゃない? ちゃんと食べてる?」
「食ってるよ。さっきも腹一杯うどん食ってきた」
「だったらいいけど。それにしても、真奈ちゃんちっていつ来ても片付いてるわよね」
 アタシがここを”アタシんち”呼ばわりされるのが嫌いなのをこの女は知っている。言ってみれば喧嘩を売られてるようなものだが、当て擦りにいちいち反応しても始まらない。
「掃除のおばさんが来るからな。ま、あの人はアタシがどんな暮らしをしてるか、長崎に報告するのが本業らしいけど」
「相変わらず皮肉屋ね。私のことも同じように思ってる?」
「……それは謝っただろうが」
 菜穂子は「そうだったかしら?」としらばっくれた。くそ、やっぱりぶん殴ってやろうか。
 
 この女弁護士との付き合いは長い。知り合ったのは中学に上がった最初の夏休みだから、早いものでもう五年が経ったことになる。
 しかし、初めの頃は今ほどの付き合いじゃなかった。彼女はアタシの父親の同僚の奥さんで、しかも当時の彼女は弁護士になりたてで今よりもずっとバタバタしていた。アタシはむしろ彼女より、彼女にほったらかされていた彼女の夫と仲が良かった。
 今のような間柄になったのは彼女がアタシの未成年後見人に就任してからだ。
 父の逮捕後、アタシの親権は祖母にある。一般にいうところの”親の同意”が必要なときは電話で了解をとって自分で祖母の署名をするか、どうしても自筆が必要な場合は郵便でやり取りをする。もっとも学校はアタシの事情を知っているので煩いことは言わないが。
 だから、最初は後見人が必要な理由が理解できなかった。というより、それが何をする人間なのかすら知らなかった。
 未成年後見人とは、簡単に言えばアタシとアタシの保護者の利益が対立するときにアタシの代理人になってくれる人のことだ。
未成年のアタシは自分では法律的なことは何もできないので祖母や叔父叔母に代わってやって貰わなければならないが、相手がアタシの利益を守ってくれるとは限らない。例えばアタシには死んだ母親が祖父から相続した長崎市内の土地や会社の株式などの財産、さらに祖母が亡くなった場合に母親に代わって相続をする権利があるらしいが、これらに関してアタシと叔父叔母は言ってみれば利益相反の関係にある。彼らに代理人をやらせたらアタシにとって不利な取引をしかねない。というか、間違いなくやるだろう。そういうときにアタシの権利を守ってくれるのが未成年後見人という訳だ。
 そういう意味では感謝こそしても邪険にしてはいけない相手なのだろう。しかし、一回りしか歳が離れていないくせに親代わりのような顔をされるのは気に喰わなかった。
 さっきの謝った云々はあまりの馴れ馴れしさにキレて菜穂子を叔父叔母側の人間呼ばわりしたときのことだ。結局、菜穂子に報酬を支払っているのは奴らで、口ではアタシの味方のようなことを言ってもいざとなったら逆らえる筈がない――そういうことをぶちまけたのだ。
 同じくブチ切れて言い返してくるだろうとアタシは身構えた。
 ところが菜穂子は余裕の笑みを浮かべて「あなたの後見人の仕事では誰からも一円も貰ってませんけど何か?」と言っただけだった。

(……知るかよ、そんなこと)

 バツが悪いことこの上なかった。
 仏頂面を装いながら自分の子供じみた言動を心底後悔した。何もかも見透かしたように笑われカッとなりそうになったが、毒気を抜かれたアタシに言い返す言葉がある筈がなかった。それ以来、アタシはぶっきらぼうな口をききながらもこの女にいまいち逆らえないでいる。
 そして、それとは別にもう一つ、アタシにはこの女が苦手な理由がある。
 
 何人家族用だか知らないが、このマンションの部屋はどれも無駄に広い。リビングがキッチンと合わせて二〇畳、寝室に使っている部屋が一〇畳、八畳と六畳が各一部屋、それに長身のアタシがゆっくり脚を伸ばせるほど大きなバスタブがついた風呂場。
 長崎市内にしか住んだことがない叔母が何故ここを買ったのかは謎だ。不動産屋の若くてハンサムな営業マンの口車に乗せられたんだろうとアタシは思っているが。資金の半分を都合した祖母の繰り言によれば、すっかり価値が下がっている上に不況で売るに売れない状態らしい。今となっては厄介者の姪を閉じ込めておくくらいしか使い道のない塩漬け物件という訳だ。
 だだっ広いリビングの真ん中を占領するソファに手荷物を放り投げた。
「で、何の用だよ?」
「あら、私、用がなきゃ来ちゃいけないの?」
 そういう訳じゃないが。
「……弁護士ってそんなにヒマなのか?」
「そうでもないけど。――はい、コレ」
 菜穂子は手にしていた封筒をアタシに差し出した。質素な茶色い角封筒。丁寧な宛名書きに反して雑に施された封と赤い検印。刑務所から送られてきた父からの手紙だ。
 菜穂子は父の裁判の弁護団の一人でもある。その縁で父は彼女に娘宛ての手紙を託す。直接送ってこないのはアタシが最初の書留を受取拒否したからだ。
 
(――ねえ、そんなにお父さんを許せない?)

 いつだったか、菜穂子に訊かれたことがある。
 正直に言えばどちらでもない。というより、アタシは父の何を責めればいいのかすらよく分かっていないのだ。アタシの今の境遇は間違いなく父が容疑者を死なせたことの結果だが、アタシの中でもそれはダイレクトに繋がっていない。
 どうしてアタシがこんな目に遭わなきゃならないのか。その思いはある。しかし、それを一〇〇パーセント父のせいだと言い切れるほど事は単純ではないだろう。大部分はそうだとしても。
 だったら何故、アタシは父の手紙を拒むのか。おそらく、そこに並んでいるのが謝罪の言葉とアタシへの気遣いだからだ。
 そんなもので自分が置かれた立場を思い知らされたくなんかない。アタシはそのまま封筒を屑かごに放り込んだ。
「いつになったらアタシに手紙書いても無駄だって分かるんだろうな、あのクソ親父は」
「どうなのかしらね。真奈ちゃんが返事を出さないからじゃないの?」
「そうか? 普通は返事が来なきゃ諦めるだろ?」
「普通はそうかもね」
 菜穂子の口調にアタシを責める響きはなかった。言っても無駄なことを知っているからだろうか。
「それはそうと、こんなのも着てるわよ」
 菜穂子は他の郵便物も差し出した。携帯電話の請求書。馴染みのバイク屋からの請求書。会員になっているレンタルビデオ屋のイベントの葉書。いつだったか、由真に強制的に連れて行かれた美容室のダイレクトメール。
 そんな中に一通だけまったく心当たりのない封書があった。
「何だこれ?」
 B5サイズの社用のもので、封筒の下の方に大きく〈タカハシ・トレーディング〉という会社名と東区香椎の住所が印刷してある。中身は堅くて厚みがある正方形に近いもので、封筒もその形に沿って折れ曲がってはいるが再利用品ではなかった。真新しいものを下ろしたばかりのようだ。
「知ってる会社?」
「まさか」
 ”トレーディング”というからには貿易関係の筈だが女子高生のアタシとはまったく接点がない。輸入品といえばAGVから出ているヴァレンティーノ・ロッシのレプリカ・ヘルメットを買ったことがあるが、もう二年以上前の話だ。今さら何か送ってくるようなことはないだろう。
 封筒を裏返した。本来は宛名を書くところは空白だったが、代わりに裏面に飛脚マークのメール便の伝票が貼ってあった。
「何だ、こりゃ?」
 差出人の欄を見てアタシは絶句した。横から菜穂子がアタシの手元を覗き込んだ。
「徳永由真って――真奈ちゃんのお友だちじゃないの?」