「砕ける月」第10章 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
 少年クラスの稽古が終ったのは九時を少し過ぎたぐらいだった。
「神棚に礼! ――ありがとうございました!」
「ありがとうございましたあッ!!」
 どこにその元気を残していたのかと呆れるほど張りのある挨拶を終えると、子供たちは一斉に道場の入口に向かってダッシュする。ジジイの道場は雑居ビルの一階と二階を占めていて少年の部で使うのは一階の広くて新しい方の道場だ。入口のところは大きなガラスで仕切ってあって、向こう側は保護者が稽古を見学したり子供が出てくるのを待つスペースになっている。
 なので。
「真奈先生、さよならッ!」
 同時に尻のあたりにぺちっと小さな手が当たる感触。
「こらあッ!」
 こういうませガキがいても蹴っ飛ばす訳にはいかない。腹が立つのはこいつらはアタシが手を出せないことをちゃんと分かっていて、時には編隊飛行並みのコンビネーションで立て続けに触ってくることもある。さすがに親の目に留まればちゃんと叱られているようだが、苦笑しながらガラス越しに頭を下げられても曖昧な笑みで応えることしかできないアタシはあまり救われない。
 まあ、子供相手なのでそこまで腹を立てることもないのだが。ちなみにこの光景を目撃してアタシが触られることに寛大だと勘違いした中学生男子が同じことを試みたときは”居残り組み手”と称して半殺しにした。
 道場の掃除を終わらせて二階の事務所に上がった。スタッフルームで手早くシャワーを済ませてTシャツとジーンズに着替えた。
 帰ろうとすると館長が声をかけてきた。いつものように無駄にさわやかな笑顔。
「やあ、お疲れさん。今日は急に悪かったね」
「……ああ、館長」
「もう帰るのかい? 親父から店屋物をとってあげるように言われてるけど」
「あ、そうなんですか……」
 確かにそういう条件で今日の代行を引き受けたのだが、ジジイがいないという時点で約束は諦めていた。ジジイの仕事が終わる深夜まで胃袋は持ち堪えてくれそうにないし、かといって整骨院に押しかけて飯をたかる気もしない。
 アタシは少しだけ思案した。
「でも、この辺に美味しい出前の店ありましたっけ?」
「……そうだなぁ」
 大橋といえば南区の中心市街地で、特に西鉄大橋駅近辺は夜になってもたくさんの店が営業している。大学や専門学校が集中しているのと中央区や博多区に比べて家賃が多いせいで一人暮らしの学生が多く、彼らを相手にした値段が安い割に美味しい店も少なくない。
 しかし、幹線道路からちょっと離れるといきなり店が減ってくるのも事実で、道場がある折立辺りになるとこの時間に出前をしてくれる店の選択肢はなくなってくる。実はビルの三軒隣にラーメン屋があって出前をとったことがあるのだが、アタシは本気で店に火をつけてやろうかと思った。ありとあらゆる外食産業でラーメン屋は唯一不味くてもやっていける不思議なジャンルだが、それにしてもひどかったのだ。
「コンビニで買ってこようかな」
「その方がいいかもね」
 館長は財布から千円札を引き抜いてアタシに渡した。すると。
「あ、だったら俺が買ってこようか?」
 太くて張りのある声が会話に割り込んできた。振り向くとK-1の録画を見ていた師範代連中の一人、井之口がこっちに身を乗り出していた。
 褐色に灼けた肌のごつい体格と角刈りが良く似合う威圧感丸出しの面構え。笑うとチョコボールなんとかというAV男優に似ているらしいがそっち方面は詳しくないのでよく分からない。
 とてもそうは見えないが井之口は昼間は南区役所に勤めるれっきとした公務員だ。税金関係の部署にいるのだそうで、差し押さえの強制執行をするのに必要な免許のようなものを自慢げに見せられたこともある。ちなみにこの男、「区役所をクビになっても次の日にはサラ金の取り立てで再就職できる」と誰もが口を揃える強面なのだが何故かアタシには優しい。まあ、単にモテなくて女に免疫がないだけだと思うが。
 とはいえ、そんなこと頼める筈もなく。
「いいですよ、自分で行きます。井之口さんは何か買ってこなくていいですか?」
「うわ、真奈ちゃん優しいねぇ。じゃあ、俺も弁当を――」
「あ、じゃあ俺も」
「俺も」
「てめえら……」
 画面から目を離すことなく他の面々が言い出す。誰かの買い物に乗っかるのはお約束みたいなものなので、井之口が不満そうにすごんで見せても誰も相手にしなかった。若手が調子に乗って「ビールも!」と言い出した時には館長が小さく咳払いをしたが、スタッフルームでの酒盛りはいつものことなのでこれまた誰も相手にしなかった。
 バイクを出す距離じゃないので近くのコンビニまで歩いた。アタシを含めて六人分(館長は除く)の弁当と酒のつまみ、ビールと酎ハイを買うとビニール袋一つでは収まらず、帰りは両手に袋を提げる羽目になった。弁当が潰れないように缶だけ別の袋に詰めたのだが、そのせいで片方の袋だけ異常に重くなった。十五本も詰め込めば当然のことだ。
 コンビニの店長が心配そうに声をかけてきた。
「大変だね、重いだろ?」
「筋トレだと思えば大丈夫だけど。あ、そう言えば」
「なんだい?」
「タバコも頼まれたんだっけ。えーっと、マイルドセブンのスーパーライトとキャスター・マイルドのボックス、セーラムのメンソール。あと、マールボロのライト」
 タバコは軽いから荷物にはならないが未成年のアタシは買う時にちょっと気を使う。幸いにして店長とは顔見知りなので煩いことは言われない。それでも一応確認はされる。
「自分で吸うんじゃないよね?」
「もちろん」
「ならいいけど」
 店長はアタシが言った銘柄のタバコを袋に詰めてくれた。アタシは価格の大半が税金の軽々しいパッケージを見つめた。
 さも当然のように言ったがアタシはタバコを吸ったことがない訳じゃない。去年のクリスマス・イブに禁煙したのだ。

          *          *          *

 酒に関してアタシはあまり詳しくない。
 興味がなかった訳じゃないし、飲んだこともある。道場なんかに出入りしていると年配のおじさんたちに勧められることも少なくない。ある程度の年代以上の人たちは自分たちがそうだったせいか、未成年の飲酒に対して寛容というか倫理観に欠けているものだ。
 不味いとは思わないがそんなに美味しいとも思わない、というのが本音だ。
 母親の血筋でアルコールそのものにはかなり耐性があるらしく、どれだけ飲まされても泥酔してしまったりという経験はない。以前に通っていた道場の納会に紛れ込んだ時も誰もがへべれけになって潰れていく中でアタシだけが平然としていた。
 だが、それは逆に飲酒に興味をそそられない要因でもあった。酔って気持ちよくならないのに大して美味しくもないものを無理して飲む意味が理解できないのだ。
 アタシの興味はむしろ、飲酒と並んで未成年がやっちゃいけない行為――喫煙の方にあった。
 吸い始めたのは父の事件後、一人暮らしを始めた頃だ。特にきっかけがあった訳でもなく、誰かに勧められた訳でもない。そんな人間はアタシの周りにはいなかった。強いて言えば菜穂子がヴァージニア・スリムのメンソールを吸い続けているが、彼女は昔からアタシの前では一切タバコを吸おうとしない。
 それでも何か理由を捜すとしたら”退屈だったから”だろう。誰にも何も言われず、ただ腫れ物に触るような扱いを受ける日々。心にぽっかり空いた穴を埋めるのに他に適当なものが見当たらなかったのだ。
 最初に口にしたのはたまたまコンビニのレジで目に付いたラッキーストライクのソフトパッケージだった。買う時に身分証明の提示を求められたらどうしようかという考えがチラッと脳裏をよぎったが、やる気のなさそうな店員はあっさりレジを通してくれた。まあ、コンビニのバイトなんてそんなもんだ。
 ところがアタシはよほどテンパっていたのだろう。ライターを買い忘れたのだ。家のレンジはIHヒーターだしマッチの買い置きもなかった。
 やむなく使ったのは父が愛用していたスターリングシルバーのプレーンなジッポだった。父の五〇歳の誕生日にアタシが贈ったものだ。父の荷物は住んでいるマンションの一室に乱暴に放り込んだままになっているが、そこから引っ張り出すときにちょっとだけ罪悪感が湧き上がった。
 ドキドキしたのは火をつけるまでだった。
 何しろ初めてだから吸い方なんて知らなかった。けれど、吸っているのをずっと見てきたのが二人いた。一人は父で、母がアタシの前で吸うなと煩く言ってもバツが悪そうに笑うだけでいつも口の端にタバコを咥えていた。父が吸っていたのはピースの両切りだった。立ち上る煙もとろりと濃い感じで甘い匂いがしたのをよく覚えている。
 もう一人は菜穂子の夫だ。こちらは妻と違ってアタシの前でも意に介することなくタバコを吸っていた。銘柄はキャメル。JTで扱っているものがリニューアルで味が変わったからと輸入品を取り寄せてまで吸っていた。
 その頃にはアタシも多少色気づいて「髪に匂いがつくから近くで吸うな!」と文句を言うようになっていた。だが、この男は口を尖らせて煙を細く吹き出したりしていた。そうなるとアタシはますますむきになり、相手はさらに面白がってアタシをからかう――その繰り返しだった。今にして思えばその男なりのちょっとしたレクリエーションのつもりだったのだろう。
 どちらの吸い方を参考にしたのかといえば後者だった。父の吸い方はいかにもヘビーなものを吸ってる感じだったし、逆に菜穂子の夫はスマートに燻らせている感じだったからだ。まあ、そうはいっても最初の一服はろくなことにならなかったが。アタシは煙を思いっきり肺に入れてしまい、なかなか収まらない咳で悶絶する羽目になった。
 しかし、何事にも慣れは訪れるものだ。数日後にはアタシは自分でもびっくりするほど自然に紫煙を立ち上らせるようになっていた。

「――ちょっと真奈、何やってんの!?」
 口を利くようになった最初の頃。天神をウロウロしていて由真と一緒に公園のベンチに腰を下ろした時のことだ。由真が目を見開いて非難混じりの声をあげた。
「……あ?」
「あ、じゃないよ。ナニ咥えてんの?」
「何ってタバコだよ。見て分かんないか?」
 アタシはラッキ-ストライクのパッケージを振ってみせた。別のタバコも試してみたが口に合ったのはラッキーだった。ジッポも最初こそ忸怩たるものがあったが結局父のものを使い続けていた。
「ちょっと、タバコなんか吸っちゃ駄目じゃん。ほら、やめなさいよ」
「いいじゃねえかタバコくらい」
「よくないよ!」
 珍しく語気を強めてアタシの口元に手を伸ばしてくる。アタシは身体を反らしてそれを避けた。
「おいコラ、何やってんだよ」
「駄目だったら駄目!」
 何が由真の癇に障るのか分からなかったが、アタシの喫煙を阻止しようとする勢いはちょっと面食らうほどのものだった。顔は真剣だったし掴みかからんばかりに身体を寄せてくる勢いもそれまでとは異質なものだった。
 とはいえ、アタシも「ハイそうですか」とはなかなか言えない性格だ。
「……分かったよ、吸わなきゃいいんだろ。ほれ」
 アタシは顎をしゃくってタバコを取れと合図した。由真は指先でつまむようにしてアタシの口からタバコを取り上げ、どこに捨てようか思案しながらアタシから視線を外した。
 その瞬間、アタシは電光石火の早業で次の一本を咥えて火をつけた。ジッポの音に驚いて振り返った由真とまともに目があった。
「あーっ!」
「へへん、残念でした」
 おそらくその時のアタシはひどく底意地の悪い笑みを浮かべていた筈だ。
 アタシは見る見るうちに泣き出しそうにゆがんでいく表情を見つめていた。その可愛らしい顔に向かって細く煙を吹きかけてやりたい衝動に駆られた。かつて自分がからかわれたように。
 ところが次の刹那、目の前に突き出された拳にアタシは絶句させられた。由真がむんずとタバコを握り潰したのだ。
「おいっ、火ついてるってッ!」
「うるさいッ!」
 由真は半泣きになりながらタバコをアタシの口先から奪い取った。アタシは由真に掴みかかり、石のように硬く握られた小さな手を力任せに開かせた。女同士でほぼ取っ組み合いする姿は周囲から見ればさぞ奇異だっただろうが、そんなことを気にする余裕なんかなかった。
 幸いにも強く握りしめたことで火が消えてしまっていて、火傷らしく真っ赤にはなっていたが根性焼きのような水ぶくれにはなってなかった。アタシは由真を無理矢理立たせて公園の水道まで連れて行った。
「何やってんだ、おまえ。無茶しやがって」
「だって……」
「だってじゃねえよ」
 本来、アタシが怒る謂れはなかった。由真が勝手に騒いで勝手に火傷しただけだからだ。アタシの被害と言えばタバコが一本無駄になっただけだ。
 にもかかわらずアタシは怒っていた。
「何でアタシがタバコ吸うのが駄目なんだよ?」
「……やなの」
「はあ?」
「嫌なの。真奈がタバコ吸ったりするのが。お酒飲んだり、夜遊びしたりするのも」
「何だそりゃ……」
 いや、酒の話なんかした覚えがないが。実はタバコと一緒に酒にも手を出そうとしたのだがそっちはまったく進展がない。
 その後も由真は頬を膨らませて無言の抗議を続けた。くそ、面倒くせえ――心の中で盛大に舌打ちしながらもアタシは根負けした。
「どうすりゃいいんだよ? やめろってのか?」
「……うん」
「でもよ、そう簡単に禁煙なんか出来ねえぜ?」
「だったら、とりあえずあたしの前でだけやめて。そうしたら、そのうち独りのときも我慢できるようになるから」
「何でそんなこと知ってんだよ?」
「えっ!?」
 びっくりしたような眼差しがアタシを見返してきた。
「あ、あのね……。お兄ちゃんがタバコやめる時にそう言ってたの。最初は彼女の前では吸わないようにして、次にあたしの前で吸わなくなって。そうやって吸わない相手を増やしてったら、そのうち吸いたくなくなるんだって」
「へえ……」
 それが禁煙の方法として正しいのかどうか、アタシにはよく分からない。むしろ、誰もいない時に我慢してた分を取り返したくなるような気がした。
 それでもアタシは由真の前でタバコを吸うのはやめることにした。
 ところがそうしていると、不思議なことに他の時もそんなに吸いたいと思わなくなってきた。最初から好きで吸い始めたものじゃないしニコチン中毒というほどの本数を消費している訳でもなかったが、まさか由真が言うとおりになるとは思っていなかった。
 そして、独りで過ごした去年のクリスマス・イブの夜、ベランダでパッケージから最後の一本を振り出した時にアタシはふとタイミングが来たことを悟った。
(やめるか……)
 他人に言われてやめるというのもみっともない気がしたが、理由はどうあれきっかけとしては悪くなかった。わざとらしく小さなため息をついてから、アタシは力任せに捻り潰したラッキーストライクのパッケージとジッポのライターを思いっきり遠くに投げ捨てた。

          *          *          *

 コンビニからの帰り道は鍛錬と割り切ればなかなか有意義だった。そうでなければ苦行以外の何物でもなかった。
「くっそ、重てえ……」
 愚痴が口をついて出る。くそ、いったい誰がこんなに飲むんだ。
 何度か袋を持ち直しながら道場までの一本道を歩いた。頼りないながら街灯があるので暗いとまでは言えないが決して明るくはない。女性の一人歩きには本来向かないところだ。まあ、アタシを襲う物好きなんていないだろうが。
 角を曲がったところから原付らしき二輪が出てきた。遠くてはっきりは見えないが二人乗りしているようだ。酔っ払い運転のようにフラフラしているのが気になった。

(待てよ。あんなところに曲がり角なんかあったか?)

 角じゃなくても建ち並ぶビルの敷地から出てきたのかも知れない。おかしな話じゃない。
 ところが次の瞬間、ツーストロークエンジンの甲高い音が交通量のない路地に響いた。原付がアクセルを開けたのだ。ぐんぐんこっちに近づいてくる。遠くでは気にならなかったがアタシからだとライトを直視する形になった。しかもハイビーム。思わず目を細める。
 その光の中にほっそりしたシルエットが浮かんだ。若い――かどうかはよく分からないが小柄な女の影。
 次に何が起こるのかをアタシは一瞬で理解した。ひったくりだ。角から出てきたように見えたのはおそらく細工がしてあってロービームではライトのスイッチが切れるようになっているのだ。ふらふらしていたのは二人乗りでギリギリまでスピードを落としていたからだ。そうやってゆっくり獲物に近付いて、ここぞというところでスピードをあげてバッグなどを奪い去る。
 このところの不況のせいか、福岡でもひったくりの被害が増えているとは聞いていた。学校でも注意するように生活指導室の面々が言っていた。ただ、あれは繁華街での話だと思っていたのでこんな田舎道でやるやつがいるとは思わなかった。
「――ッ!!」
 原付の後ろの男――だろう、多分――が歩いていた女の肩口に手を伸ばした。バッグを道路側に持ってる時点でこの女にも落ち度があると思ったが、よく見ると女は両手に荷物を抱えていた。トートバッグくらいの大きさのバッグが一瞬で奪い去られた。
 女が声をあげようとした気配は伝わってきた。しかし、声にはならなかった。バイクはそのまま一気にアクセルを開けて現場を離れようとする。見事なヒット・アンド・アウェイだった。この場にアタシが通りかからなければ、だが。
 アタシは弁当などが入った袋を地面に落とした。ビールと酎ハイが入った袋に手を突っ込む。できれば安い発泡酒の缶を選びたかったが悠長に中を覗いている暇はない。缶を一つ手に取った。
 原付は猛スピードでこっちに迫ってきた――と言いたかったが二人乗りではそんなにスピードは出ない。
 アタシは原付を運転している男の胸板めがけて思いっきり缶を投げつけた。
 ゴツッという鈍い音は意外に大きかった。バイクの男は何が起こったのか分からずに前のめりになりハンドル操作が御留守になった。バイクは急にコントロールを失い数十メートルを迷走してから転倒した。後ろの男はとっさに飛び降りたが勢いを殺し切れずにつんのめって転んだ。前の男はバイクと一緒にアスファルトを滑って行ってから路上に転がった。
 アタシはビールの袋も置いて二人に近付いた。
「大丈夫?」
 能天気に問い掛けてみる。後ろの男は抱えていたバッグを放り出していたので目線を切らないように注意して近づいた。邪魔されることなくバッグは拾えた。
「警察呼んであげようか?」
 もう一度声をかけた。
 後ろの男がアタシを見た。閉まりのない口元をした何処にでもいそうなB系のバカだ。いくらひったくりが現行犯じゃないと捕まりにくいからといって顔も隠していない。こいつらの十羽一絡げの間抜け面なんか覚えられないのでそっちは諦めたが、原付のナンバーは記憶に叩き込んだ。
「……うあ」
 前の男が呻いた。身体を起こそうとしたが、缶が当たったらしい腹か胸のあたりを押さえたまま呻くばかりで立ち上がれなさそうだった。
 自慢じゃないがアタシは肩が強い。井之口が所属する野球チームの助っ人に駆り出されたとき、ライトフライからのタッチアップをホームで刺して”女イチロー”というあんまり嬉しくない仇名を頂戴したこともある。おまけに三五〇の中身入りの缶は結構重い上に硬い。向かい合わせで喰らうことになるのでちょっとしたカウンターの効果も狙える。威力は相当なものだった筈だ。
「ほら、お友だちが具合悪そうよ。助けてあげたら?」
「……くそっ」
 後ろの男は恨めしそうな目でアタシを睨みながらそっちに近付いて行った。絡んでくるかと思って密かに期待していたのだが、ヘタレなひったくり二人組は原付を起こすとさっさと立ち去ることを選んだ。行かせない方がいいかと思わないではなかったが警察に突き出すのも結構な手間だし、骨折でもされてたら逆に面倒なことになる。
 まあ、お礼参りに来るほどの根性はあるまい。
 バイクが走り去るのを見送ってからアタシは被害者になりかけたシルエットに近付いた。
「大丈夫ですか?」
 アタシはへたり込むほっそりしたシルエットの顔を覗き込んだ。そして、絶句した。どうやらこいつとは異様な状況下の夜に偶然出くわす運命にあるらしい。思えば出会った時もそうだった。
「……真奈ぁ、怖かったよぉ……」
 子供のようにべそをかいていたのは徳永由真だった。