台湾がわかれば、中国、沖縄がわかる | 気になる映画とドラマノート

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台湾の特徴は、台湾現地住民による独自の王朝がなく、台湾の島のそこここに、人々が暮らしを営んでいた、ところへ、次々に外国の勢力が入り込んでは、支配者となった、という構図に、台湾という島の他の多くの国々と異なる事情がある。

 


 

 例えば、台湾では、ハワイの王、琉球王、朝鮮王のような存在はなかった。

 


 

 最初に、台湾で大きな一塊の勢力が形成されたのは、唐の官僚とそれに率いられた漢族だった。彼らは、唐から入り込んだ台湾の開拓農民というだけで、とくに、現地住民を支配したというわけではない。

 


 

 それは、アメリカ人がインディアンを当初、アメリカ国民にしたわけではなく、

 

敵として戦ったり共存したりしていたと同じ意味で、現地住民と分離したまま、入り込んだだけだった。

 


 

 最初に上から、住民を総体的に捕捉して、政策的統治の対象にしはじめたのは、オランダの「私兵を持つ商業会社」だった。

 


 

 次に、1626年には、台湾南部をオランダが、北部をスペインが、というように、すみ分けた。

 


 

 その間、現地住民は政治思想などに関係なく、ただ暮らしていた。

 


 

 1642年には、オランダがスペインを追放して、単独支配して、支配された住民の中には、かつて移住してきて、その前からいた住民を駆逐した大陸出身者が多かった。

 


 

 この間、大陸では、唐の時代から、元(モンゴル)などの異民族支配があり、漢民族がモンゴル人の「元」を退けたあと、「明国」を興し、この明国がさらに、満州族に滅ぼされた。この滅ぼされた明国の勢力は、清国に復讐するために、いったん台湾に逃れてきたのが、二度目の、漢族の大移住だった。

 


 

 これで、台湾原住民は、ほとんど、漢族に押しかけられて、ひさしを貸して、母屋を取られるようなことになった。これは、インデイアンや、ハワイ人のたどった運命と同じだと言っていい。

 


 

 この時、はじめて、清国(満州族支配層)に対抗する「漢族支配層の王朝」が台湾に誕生した。

 


 

 漢族鄭氏台湾は、満州族支配層の清国に滅ぼされて、今度は、台湾は、満州族支配層の清国の一部になり、台湾の王(もとも明国系の漢族)は消滅した。

 


 

 台湾は、これで、清国の一地方になった。

 


 

 この「清国(満州族支配層)の一地方になった台湾を、大陸の清国は非常にあいまいな統治をしたので、アメリカのペリーは、清国の領土の一部だという認識がなく、台湾に上陸して、測量をしても、抵抗もなにも、ない状態だった。

 


 

 そこで、ぺりーは、アメリカ本国に、「台湾をアメリカの領土とするべきだ。そうすれば、清国南部一帯を制することができる」と手紙を送った。

 


 

 こうしたアメリカやその他の国の思惑があると見た日本の井上毅(こわし)は、「台湾は放置すれば、必ず、欧米のどこかの国の領土になるだろう」と伊藤博文に意見書を書いた。

 


 

 清朝の台湾統治は、まさに自分のものに、ただツバをつけておくというような領有で、いっさい、台湾に対して、中央政府の財政から、民の福祉に利する事業は行わなかった。ただ、一方的に、官吏の家族を大陸に残させて、単身赴任させて、

 

その下級官吏たちに、現地住民をしいたげさせた。


 


 

 こうして、明国崩壊期の漢族流入時代は、台湾には、漢族は、約15万人だったのが、清国時代には、官吏とともに、満州族に支配された大陸の漢族が流入して、1811年には、漢族は194万人になった。

 


 

 台湾は、現地住民が繁栄して人口が増えたのではなく、ただただ、外部から、漢族が引っ越してきて、漢族の人口が増えた島である。

 


 

 1905年、台湾の総人口を調査したところ、300万人だったので、300万人のうち、三分の二以上が、中国大陸から、強引に入り込んだ漢族の島になっていたことがわかる。

 


 

 これは、イギリス人がアメリカ大陸に入り込んで、繁栄して、どんどんインディアンよりも、大きな人口比率を占めるようになったのと、まったく同じだった。

 


 

 イギリスを去ったイギリス人が北米大陸で国家を開始して、イギリスと独立戦争を戦ったこと。イギリスから見ると、アメリカ人は英国を裏切った反乱勢力である事と、まったく、同じように、やがて、台湾の漢族は清国に歯向かうようになる。

 


 

 なぜならば、清国から台湾にわたってきたのは、漢族であり、清国の宮廷の主要な人々は満州族だったからである。

 


 

 つまり、清国と、台湾住民は、やがて敵対関係になっていった。

 


 

 敵対関係とは、次のような状態である。清国は、漢民族を弾圧して、台湾先住民族の地域に入ってはならない、と命令した。

 


 

 満州族朝廷の清朝は、台湾の内地を、「漢族」「漢族の名を名乗る現地人」「漢族の名を名乗るわけではない現地住民」と、三つに区分けして統治した。

 


 

 こうして、次第に通婚を経て、台湾人は、漢族を祖父、曽祖父とする人口が多くなっていく。

 


 

 このあとの台湾社会の内部対立はすでに、現地住民をそっちのけに、中国大陸の出身別の村落が分立して、対立抗争をする時代があった。

 


 

 この出身地別対立はやがて消えていくとともに、満州族のまったくいない漢族中心コミュニティー意識が生まれてくる。

 


 

 こうして、清国からすれば、台湾は国内の下賤な者が移住していった地域であり、台湾の漢族からすれば、大陸は、漢族を虐げる、倒れればいい国、だった。

 


 

 そして、台湾には、すでに原住民はかなり漢族と婚姻によって同化していた。

 

 (極めて少数の古来からの現地住民が漢族と婚姻せずに残った)

 

 台湾人から見て、憎い清国は、やがてアヘン戦争で、英国と戦争をして、揺らぎ始めた。

 


 

 台湾の人々は、清国の満州族が駆逐されて、大陸の漢民族が新しい国を作ればいいのに、と思った。


このようにしてみると、清国と中華明国とは、敵対関係にある支配層だとわかるのだが、日本の三流学者は、「元」も、清国も、明国も、中華民国も、中華人民共和国も、皆、「中国」とごちゃまぜにしている。では、なぜ、モンゴル人も、満州人もなぜ一度は、北京を首都にしたかというと、モンゴルや満州は寒いからだろう。

 

 その願いはかなって、孫文が辛亥革命によって、満州族を朝廷から追放した。

 


 

 この時、大陸の漢族は、満州族の支配地域を、今度は、すべてが、漢族の支配地域だと言い出した。これが、蒋介石が、「台湾」「満州」「琉球」は「中華民国」の領土だ、と言った意味だった。

 


 

 さて、台湾の漢族はふるさとの漢族が、満州支配を倒して、漢族を最上位についたことを喜んだが、大陸では、漢族の中国共産党と漢族の中国国民党の分裂戦争が始まった。台湾の漢族にしてみれば中国共産党であれ、国民党であれ、どちらも、同族ではあるのだが、実際に台湾に移住してきたのは、中国国民党を支持する側の漢族だった。

 


 

 ここで、台湾の漢族と大陸の中国国民党の漢族が同胞同士、出会った。

 

 ところが、ここで、驚くべきことが、起こった。

 

 台湾の漢族は、長い事、台湾で暮らすうちに、同じ血筋の漢族ではあっても、大陸の漢族とは違う生活感覚を持ち初めていた。

 


 

 それは、日本文化の受け入れとともに、はじまった、台湾の漢族と大陸の漢族の超え難い壁の成立だった。

 


 

 中国国民党および一緒にわたってきた漢族は、台湾の漢族が日本文化にかぶれているのを見て、徹底的に弾圧した。

 


 

 蒋介石は、連合国に、(満州族を漢族が倒して中華民国を建国したことは、伏せて、満州族の領地だった台湾、琉球は、日本の敗戦によって、自動的に中華民国(漢族支配層)のものとする、とカイロ宣言で認めさせた。

 


 

 そこで、1946年からはじまった内戦に敗れた蒋介石とその支持者は、大陸からの敗走の逃れ先を台湾に選んだ。

 


 

 台湾住民は、故郷の同胞、漢族が、異民族日本人とも、満州族とも違うので、当初これを非常に喜んで迎えた。

 


 

 ところが、いざ中国国民党の政治が始まってみると、遠い親戚より近くの他人日本が敗戦で去ると、大陸から漢族という親戚が来て、驚くべき意地の悪い極悪な親戚で、親戚ではない、日本人が、実はよほどよい友人だったことがわかった。

 


 

 財産の剥奪と、1万8000人以上の従来からの台湾住民・・・かつての大陸からの移民定着者が、やってきた親戚同胞のはずの、中国国民党政府によって弾圧殺害された。

 


 

 その後、台湾の人々は、長い歳月をかけて、日本文化を愛する人々の意思が尊重される社会にまで、変化して行く。

 


 

 そいて、台湾内部に日本文化および、自由主義のほうが、漢族の文化と共産主義よりも、むしろいいんだ、とする台湾の半分を占める人々と、中国共産党は、漢族のリーダーだとする勢力が台湾の二大勢力になっている。

 


 

この経緯を知らない、沖縄の社民党、社会大衆党は、長年、北朝鮮の金日成研究会を開いて、北朝鮮の学者を招待してきた。「沖縄独立」を叫ぶ人々は、独立すれば、中国共産党が来ない、来ても、仲良くできる、と思っている。