オペラ座の光と影 | 高橋大輔選手と共に momokikuのブログ

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今日は氷爆の話題からちょっと離れて、アーティゾン美術館のパリオペラ座展を見学した感想を書くことにします。

 

 

 

 

と言ってもお分かりの通り、今期FD「オペラ座の怪人」がそもそもの動機ですのでこのキーホルダーと原作者ガストン・ルルーの直筆稿が一番のお目当て。

 

 

オペラの歴史やそもそもパリオペラ座に関する予備知識などまったく無い状態で入館してしまったのですけど、250点にも及ぶ膨大な展示物を目の当たりにして、ただ見てきましたってんじゃああまりにも勿体ないので備忘録として残しておくことにします。

 

早いもので来年はパリ五輪が開催されます。この開催もフランスの観光紹介を兼ねてだろうなどと思っておりましたが、実際はマニア垂涎のお宝の山でフランス在住しててもなかなかここまでの展覧会はないだろうと思うくらいガチなやつでした。

開催期間は2月5日までであと1ヶ月を切りましたが、お近くの方にはぜひ!とお勧めしたくなります。

実際、氷爆にいらしたD友さんを急遽誘って4人で観てきたんですけど、勉強しなおしてもう一度行きたいくらいです。

 

 

と言っても誰もが見て分かりやすい展示ではなく、そこはやっぱりある程度観劇や美術品に興味がある方が対象ですから、私なんぞは説明パネルを読むだけでも一苦労。ルイ14世の時代に端を発した壮大なオペラ劇場の歴史を数時間で頭に入れるなんて真似は到底できません。

それこそちょっと文化の香りを嗅いでみた程度でしたが、シャガールやドガの作品や、こんな折でもなければ触れることができない貴重な資料の数々を一望できたのは大変有意義な体験でした。

 

しかもそれらの作品はレプリカじゃないかと疑う程非常に美麗で、例えば17世紀の水彩画にしてもそんな古い年代には見えず、まずは保管状態の良さに驚かされます。

所蔵品保管に付く国家予算があまりにも少ないことを嘆く東京国立博物館の館長の投稿を読んだばかりでしたので、フランスと我が国の芸術文化に対する姿勢の違いを図らずも肌で感じたしだいです。

 

 

解説なんぞというおこがましいことは出来ないのですけど、私と同じく馴染みのない方もいらっしゃるでしょうから非常にざっくりとオペラ座の歴史を振り返っておきます。

 

バレエの歴史は舞踏家としてもすぐれていたと伝えられるルイ14世(1638-1715)に始まりますが、当時バレエは男性が踊るものだったのです。以前それについては私のブログでも触れたことがあります。

 

 

改めて調べてみるとルイ14世は舞踏を単なる娯楽や趣味としてではなく、戦場に赴く騎士の鍛錬の一つとしても奨励していたようで、今回の美術展でも1653年に宮廷で催されたバレエ「夜」でルイ14世自らが盾と剣を持つ姿を描いた絵が展示されていました。舞踏で正しい姿勢を保つ筋力をつけることはすなわち戦闘に於いても役立つと説いていたそうな。

そう考えるとアーティスティックスポーツであるフィギュアスケートのほうが、もしかしたら原初のバレエの精神性に近いのかもしれませんね。

 

1661年ルイ14世が王立舞踏アカデミーを設立を許可したのも軍事的な人材育成の名目があったんでしょう。

展示されていた当時の資料にはギリシャ神話を題材としたものが多く、ルイ14世が太陽王と呼ばれるのも王がアポロンの冠をつけて踊ったからという話が伝わっています。

日本ではちょうど元禄文化が花開き、歌舞伎などの演劇や文学、美術、学問が発展した時代。遥か海の向こうのフランスで同じくバレエが産声を上げたと思うとなんだか不思議な気がします。

 

18世紀に入ると女性ダンサーも表舞台に登場し、より物語性のある大掛かりな舞台が上演されるようになりました。

優美で牧歌的なロココ調の時代です。

去年の四大陸選手権の後、エストニアを散策した際に大ちゃんがお召しになっていたVivienne Westwoodのコートにはフランソワ・ブーシェの作品がプリントされてましたけど、ブーシェが衣装デザインやオペラ座の舞台美術も手掛けていたことご存知だったのかしら?

 

このころすでに組合が組織され、音楽の譜面や劇作などオペラ座の上映物の著作権が保護されるようになったことを示す書類が展示されていました。日本で最初に著作権法が制定されたのは明治時代ですので、フランスではこんなに早くから著作権への取り組みが進んでいたんだと感心してしまいました。

ただし、劇作家本人に関しては世間の認識度が低く、名も知れぬ作家が多かったのだとか。ファントムの人物設定もこの辺りから来てるのかもしれませんね。
 

 

1789年フランス革命が起こり、バレエ芸術は民衆の手に移ります。興味深いことにパリの市民は華やかな権力の象徴であった宮廷文化の全否定に走りませんでした。それどころか、むしろ享受できることを悦び、コミューンが率先して継承と保護に努めたのです。

 

19世紀になると、「悪魔のロベール」という作品が大変な人気を博します。悪魔のロベールに関する資料はこのオペラ座展でもひときわ数多く展示されていたので、関心を持って調べたところ今では全く上演されることはありませんが、オペラやバレエの原型ともいえる作品だというのがわかりました。

 

演奏で初めて打楽器やオルガンを使用したのもこの作品ですし、死んだ尼僧たちが白装束で蘇りロベールを誘惑するダンスを踊るシーンはその後のロマンバレエ「ラ・シルフィード」「ジゼル」と言った作品にバレエブラン(白のバレエ)として受け継がれていきます。ラ・バヤデールの影の王国もそうですね。

 

姦淫の罪で亡くなった尼僧たちのダンスは当時の倫理観に反していたので相当物議を醸したようですが、これが一番人気だったんですね。妖しげな背徳の香り漂う誘惑の舞と言えば氷爆のUNHOLYも同じ系統だし、昔からみんなこういうのが好きってことかもしれません。

 

あらすじをざっと読みましたが、悪魔と人間の間に生まれたロベールの波乱に満ちた恋物語で中々面白そうなお話です。今なぜ上演されないかと言えば、今の世の全五幕からなる長編のグランドオペラを全編演じるのは困難だからでしょう。

 


歌舞伎もそうだけど、オペラ座のお芝居も19時から24時まで5時間も続く相当な長丁場だったそうです。したがって幕は上がったが客席はまばらというのは毎度だったみたい。別に作品が不人気ってわけじゃなく、夜遅くなるほど徐々に埋まっていくのが普通だったのだと。

もっぱら遅刻の常習犯だったくせに口さがないパリっ子は作品を批評する楽しみを手放したりしませんでした。批評の範疇は作品内容や、演者だけに収まらず、舞台装置や衣装やお化粧、観るもの聴くものありとあらゆる細部に及んだそうですから、これまた現代の我々とそう大差ありません。

身勝手でわがままな観客のニーズに応え続けなくてはならない支配人たちは大層頭を悩ませたことでしょう。しかし伝統に頼らず、常に革新を続け飽きさせない工夫と努力を怠らなかったからこそオペラ座での上演作品は極めて高いレベルを保てたのだとか。

そのおかげでオペラ座の歴史は途切れることなく300年も続いているわけですが、少なくともそのうち150年は赤字だったそうで、今なお巨額な公的予算を受けつつ運営されています。そりゃ理想的な作品作りには相応の予算が必要ですし、チケット代だけでは運営費を賄えないのはいずこであっても同じなんでしょうね。

 

1860年、ナポレオン三世が新しいオペラ座の建築を命じます。コンペで選ばれたのはまだ30代の新進建築家シャルル・ガルニエでした。パリにはオペラ座が二つありますが、オペラ座の怪人の舞台といえばこのガルニエ宮です。

 

完成したのは1875年、明治8年ですから外観から想像するほど古くはない気がしますが、

その頃に作られた作品が今もフィギュアスケートで演じられていると思うと時間の感覚が狂います。

 

ガストン・ルル―がオペラ座に伝わる噂や実際に起こった事件を取材して「オペラ座の怪人」発表したのは1910年。これもまた明治時代の作品なんですね。

 

 

ファントムが常時リザーブすることを要求した2階のボックス席NO.5はガルニエ宮に現存し、中には入れませんが前扉の小窓から覗くことは出来るそうです。

ガルニエ宮のボックス席は舞台の右側と左側で奇数偶数に分けてナンバリングされています。ナポレオン三世が座る貴賓席がNO.3ですのでNo.5はその隣の国賓級が座る超VIP席。

つまりファントムは非常に分不相応な、劇場側にとっては到底受け入れがたい要求を突き付けてきたというわけです。もちろんフィクションですけどね。



実際桟敷席は年間契約者(アボネ)だけが座ることができる特等席で、それがフランス人のステイタスでもありました。年間契約する権利はなんと世襲制だったそうで、いくらお金を積んでもそう簡単に会員になれるわけではなかったそう。



優先予約やアボネのためだけのガラを開催するなどの様々な特権と引き換えに多額な年会費を徴収するようになってようやくオペラ座の経営も黒字転換。

ラウルがクリスティーヌの楽屋に花束を持って入っていきますが、舞台裏への自由な出入りもアボネの特権でした。
スターに直接プレゼントを渡せたり、舞台の前後でお話ができたり、時にはお茶に誘えたり、そんな特典があれば今だって大枚はたいてでも会員になりたい人は大勢いるはず。いやはや羨ましい。


が、当然下心で近づく輩もいるわけで、結局のところ楽屋は御大尽が踊り子を物色する場となり果てました。舞台裏ではそれこそUNHOLYな世界が繰り広げられていたわけです。

今回展示されている19世紀の画家、ジャン・ベローの「オペラ座の舞台裏」はそんな踊り子たちに鼻の下を伸ばす紳士たちの様子を描いた作品です。同様のテーマで描かれた作品は他にもいくつか展示されていて、乱れた風紀に冷ややかな視線を送る者が少なからずいたことが伺えます。

ドガのように踊り子たちの資質そのものに惹かれていたのは少数派で、たいていは音楽を聴く耳すら持たず女の子を口説くのに夢中な金持ちがたむろしていたんですね。


当然そうなるとダンサー達は蔑まれる対象となってしまいます。一部のスターを除いて出演者の給料はとても安く、しかもオペラ座にとってのメインの稼ぎ手にならない男性ダンサーは女性の半分しかもらえなかったので、生活すら成り立たず去っていくものが後を絶ちませんでした。

それどころか男性陣は女性ダンサーと語らうアボネの邪魔にならないよう上演前のけいこ場への立ち入りを禁じられていたのです。

つまり当時の男性ダンサーは紳士のお眼鏡にかなうよう女性ダンサーを掲げてみせるディスプレイ台に過ぎなかったというわけですね。こういう背景を知ってしまうと、そういう意味ではないとわかっていても”額縁”だの”土台”だのというワードには余計に抵抗を覚えてしまいますよ。別の表現はないものかしら?


女性ダンサーも半数が誰かのお妾または愛人として生涯を送り、クリスティーヌのように正式に結ばれて子どもまで産めたのは幸運なごく一部の女性にすぎませんでした。



これじゃあまともな公演が成り立つわけがありませんね。

実はこういう状況が第二次世界大戦ごろまで続いていたのだから驚きです。演目もすっかりマンネリ化しオペラ座は徐々に衰退していきます。世界の中心はロシア、ディアギレフ率いるバレエ・リュスに移っていました。


堕落したオペラ座に変革をもたらしたのは1930年舞踊手兼監督に就任したバレエ・リュス出身セルジュ・リファールでした。14年に渡る改革の末、リファールはようやくアボネ達を楽屋から追い出すことに成功!(1945年)それによって芸術の殿堂としての本来の役割を取り戻すことが出来たのです。


女性ダンサーにちゃんとトゥを突くように指導し、男性ダンサーに髭を剃るよう命じ、村娘役のダンサーが役柄にそぐわない高価な宝石を身に着けたまま出演することを禁じました。当時はパトロンの手前、プレゼントされたものを付けて出演するのが慣習だったんですって( ̄▽ ̄;)

上演中は客席の明かりを消して舞台にのみ光が当たるようにしたのもリファールです。

なんとそれまでは開演中も場内灯が付きっぱなしで、ボックス席はもっぱら秘密の商談や逢引の場所、一般席の方もボックス席の有名人を指さしてあれは誰それなどと大声を出していたそうです。舞台に集中できないなんて今では考えられない事ですけどね。

そのリファールの後継者がご存知、ルドルフ・ヌレエフで、1992年に病を押して振付けた「ラ・バヤデール」は大ヒット。オペラ座の歴史上でもかけがいのない名作となりました。彼の才能がフランスのバレエ界における男性ダンサーの地位をぐっと押し上げたとも言えますね。


ざっくり、とか言いつつ結構長くなりましたがこれでもだいぶ端折ったんですよ。



いくら経営存続のためとはいえ、拝金主義に走って魂まで売り渡したのではお話になりませんね。いくら建物が立派で壮麗な美の殿堂であったとしても、中身がお粗末じゃねえ・・・こうしたオペラ座の影の部分を知ってみると、芸術性を保ちつつ、収益を上げていくのは並大抵のことじゃないとわかります。


しかしフランス革命に勝利した民衆がたとえ飢えていても芸術を手放したりしなかったように、本来はアートに対する意識が非常に高い国民で、人の暮らしに潤いと刺激をもたらす必要不可欠なものとして守られてきたからこそ今があるんですね。


それを踏まえて、今のアイスショーの現状や日本のショービジネスを顧みるとやはり将来が心配になりますが、いつか夜が明けて新しい光が差し込む日までなんとか耐えてほしいとお願いするしかありません。私に出来るのはせいぜい応援くらいですが、良いものに触れたらこうしてなるべく紹介できるよう努めるつもりです。

 


 

 

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