渋谷陽一 Song Remains the Sameのライナーノーツ | 矢沢永吉激論ブログ

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ロッキングオンの渋谷陽一のライナーは好きで80年代からよく読んでます。


これは邦題が「永遠の詩 (狂熱のライヴ)」と名付けられたライブアルバムのライナー。理屈をこねて強引に正当化するのが売りの渋谷さんにはめずらしく勢いで書いたような文章です。


こういうストレートで若い文章は好感持てますね。

コンサートは、それが行なわれている会場そのものの空気を非常に凝縮された、何か異質なものに変えるだけのエネルギーを持っていなければならないと思う。それは僕らが今まで体験した事のない一種の空間的なトリップを起こさせる程のものであるべきなのだ。
  
その為にもミュージシャンはステージにおいて、数々の方法論を試み、いろいろな演出もするのである。しかし今まで|ニ来日したミュージシャンの中で、あの武道館という索漠とした会場をそうした凝縮した空間にまで組織し得たミュージシャンはほとんどいない。


僕が体験しだンサートの中では唯一ツェッペリンだけがそれを行なっただけである。しかも彼らは演出らしい演出はほとんどせず、異常なエネルギーの発散と収集ともいえる三時間半以上のステージを、まさに時間を疾走するがごとく展開し、聴衆を圧倒し高揚させたのだ。


まさに彼らのコンサートは全ての意味においてケタ外れであった。大阪公演では前座なしの四時間以上、休けいも何もなく出ずっぱり(ドラム・ソロでは引っ込んだが)で演奏を続け全く疲れを見せなかった。


演出も何もなく、ただメンバーが演奏を続けるだけなのだが、そのステージの八方破れ的な緊張感は他のどんなグループでも味わえないものであった、ツェッペリンが世界的なビッグネームになったきっかけは、デビューしてすぐに行なったアメリカ・ツアーである。


ファーストアルバムを発表した後、イギリスではほとんどコンサートをする機会にはめぐまれずアメリカに渡り、コンサートを続けるうちに大人気グループになったのだ。彼らは決してライヴ・グループではなく、どちらかといえばレコード向きとも思える音楽性も持っている。


しかしグループのスケールの大きさをそのまま表現したようなライヴの迫力も、まさに別格的なものなのである。しかしツェッペリンはライブ・アルバムを出さなかった。これだけの人気と実力を持ち、長い活動歴を持つグループとしては、それは異例とも思える事だ。


彼らのレコードのリリースのスケジュールやコンサートのスケジュールを見ていると、それが驚く程ストイックにそして意識的にコントロールされている事に気付く。アルバムは一枚として駄作がなく、それぞれにグループの変化と成長を示すように、実にタイミング良く発表されている。


発表当時、日本では不評であった「聖なる館」も、現在彼らの音の変化のプロセスの中に位置ずけると、しっかりとした内容と意味を持っている事に気付かされる。僕はことツェッペリンに関すると正常な批判能力を失う傾向があるのだがやはり絶賛に値するだけの仕事を彼らはしているのである。


さて、そのライヴを発表しなかったツェッペリンがここに二枚組のライヴを出した。タイミング的に少々奇異な感じもあるが、選曲や内容を見るとツェッペリンがこのアルバムに持たそうとした役割を感じる事ができるはずだ。僕はこのアルバムに接する前に興味を持っていたことが二つある。


それはどのような選曲にするかという事と、音をどのように処理するかということである。つまり最近のツェッペリンのサウンドはレコードに関しては完全に人工的に加工した、レコードというメディアを自立したものとして認識した音作りをしているからだ。


それがライヴ・アルバムという型式のなかでどれだけ可能かと注目していたのである、そして今、僕はワーナーの試聴室でJBLの巨大なスピーカーから出て来る音に向いあっているのだが、正直言って言葉を失ってしまった。出て来る言葉は、感嘆詞に近い形容詞以前の形容詞でしかないのだ。


 ライヴ・アルバムは単にライヴ・ステージの延長線上にある、ライヴの再実現を目的としたものではなく、やはりひとつのレコード制作のスタイルに過ぎない事をこのアルバムは示している。ライヴ・アルバムは決してライヴ・ステージに従属するものではないのだ。


 例えばここで聞く事のできる「聖なる館」以前の曲は、全てその曲の表情を変え、ある意味で全く新しい曲として僕らの前に提示されている。これは解釈として新しくなった、アレンジを変えた、レコードにないインプロヴィゼーション・パートが入ったという事ではなく、言葉本来の意味において新しくなったのである。


一曲目のロックン・ロールのイントロを開いただけで、僕らは現在のツェッペリンの最も新しい音の存在に出会う事ができる。それは曲が音のものであるとか、録音されたのが73年であるとかを問題にしない。当然スタジオ・ワークの段階で手を加えられた結果のものであるが、それはレコードである以上当り前である。


 どうも音を開いて興奮してしまい、レコードの直接的な情報に関する文章が後に来てしまったが。これはレッド・ツェッペリンのドキュメント映画「ザ・ソング・リメインズ・ザ・セイム」のサウンド・トラック・レコードで、’73年のマジソン・スクエア・ガーデンにおけるライヴである。


つまりレコーディングされたのは「聖なる館」発表当時のもので、演奏曲目も当然それまでのものばかりだ。演奏内容も日本公演のときのものと似ていて「幻惑されて」の長い演奏「モピー・ディック」の肉体派ドラム・ソロ、そして「胸いっぱいの愛を」のロックン・ロール的な展開といったところは、古い日本のツェッペリン・ファンにもなじみ深いものだ。


 ジミー・ペイジは自分たちのブートレッグを出されるのを非常にきらったらしいが、彼の音に対する姿勢から考えれば、それはごく当然の発想だろう。レコードはロック・ミュージシャンにとって、通常の演奏活動とはまた別の意味を持った自立したメディアなのである。


常にそうした事に意識的であろうとするジミー・ペイジにとってブートレッグの安易な発想は許しがたいものなのだろう。そしてこの二枚組のライヴ・アルバムはそうしたものへの彼の返答でもある。


 常に聴衆へ開かれた音の確かさの実現を目指すツェッペリンは、ライヴ・アルバムに対する新しい姿勢を示すと同時に、その歩みの確実さをここに二枚組のアルバムとして提示したのである。

〔1976.9.30 : 渋谷陽一〕



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