火星ダーク・バラード
上田 早夕里 角川春樹事務所 ¥1,029 (文庫: 2008/10)

火星治安管理局の水島は、バディの神月璃奈と共に凶悪犯ジョエル・タニを列車で護送中に奇妙な現象に巻き込まれ、意識を失った。その間にジョエルは逃亡し、璃奈は射殺されていた。捜査当局にバディ殺害の疑いをかけられた水島は、個人捜査を開始する。その矢先、アデリーンという名の少女と出会う……。未来に生きる人間の愛と苦悩と切なさを描き切った、サスペンスフルな傑作長篇。 第4回小松左京賞受賞作、大幅改稿で文庫化。

信じられないかもしれませんが、アデリーンという少女は人の感情を読み取ります。
”超共感性”と呼ばれるその受容能力は、周囲の強いエネルギィ(感情)を自身に取り込み(共感)、蓄積されたエネルギィを転換させるように外部に爆発的に放出させる特殊な力です。
彼女は人でありながらも、まるで外燃機関と内燃機関を循環的に両立させる、破壊の女神ともいうべきエネルギィ保存則に介入する、驚異的な能力を有す超越的な存在です。

アデリーンは遺伝子操作によって創造された、新種の人類”プログレッシヴ”と呼ばれています。
彼女は波長が合う他者と特に感応しやすく、周囲の激しい情動を波動エネルギィとして敏感に感受します。しかし、その異能は自在に操れる段階には至っておらず、現在も未だ進化の途上です。残念ながら、時に衝動的な感情に対し、無闇にも共感してしまう危険性を孕んでいるのが実情です。

プログレッシヴの能力は人類が進化した未来を体現したともいえる、未知の可能性が秘められた神秘であるのかもしれません。傲慢で浅ましい人という存在は、罪深い行動を繰り返すだけの弱い生物に過ぎません。その不条理を科学の力により払拭しようと試みる意識の革命こそが、プログレッシヴ計画の全貌だといえるでしょう。
しかし、そこには人が人を創造する倫理的な問題など、憂慮すべき数々の懸案が依然として残されています。

何より……彼女はその能力を忌避しています。
時に自身の力でさえも制御不能となる強大な力は、苦痛を伴う恐怖の感情を彼女に植え付けています。当然ながら、彼女も人間です。人としての苦悩と葛藤に憤り、悲痛にも無気力に傷心しています。
超越的な力を有す彼女の存在は不幸であるのか、現段階では定かではありません。当然ながら、将来的にも研究は推進され継続されていくことでしょう。ですが、それが彼女たち、プログレッシヴにとって幸福であるのかは誰にも分からないのです……。


『強さと弱さは矛盾しないで、ひとりの人間の中にある――。そのふたつがお互いに働きかけるから、人間の可能性は無限に開かれるのではないか』

小松左京賞を受賞した「火星ダークバラード」は近未来の火星を舞台としたSF小説だが、その仮構の世界には多様な要素が大胆に内包され、本書は著者渾身の意欲作だといえる。
物語の主となる展開は、水島という捜査官が犯人を護送中に異常事態に巻き込まれ、意識を失っている間にバディ(相棒)を死亡させてしまう……その不可知な状況を懸命に究明しようと試みる男の苦難が前面に表現される。
水島は嫌疑をかけられながらも不屈に自らの正義を信じ、身の潔白を立証すべく果敢に独自調査を敢行し続ける。その信念を曲げない愚直さが、困難さえも恐れず権力に抗する強靭な意思として情熱的に映り、また、不遇な状況を打破しようと尽力する懸命な姿勢が、読者の心理を揺さぶるように感傷的に響いてくる。

水島の信念を貫く行動は、SF小説でありながらもハードボイルドという形式がより相応しいと強く実感させられる。だが、物語はもう一つの側面として、超能力という人類の進化形態を空想させる科学的な題材が密接に絡んでくる。
新種の人類として創造された”プログレッシヴ”のアデリーンは、異能を有す自身の存在を否定するように、不信と不安の念に苛まれてきた。人としてではなく研究の対象として能力が利用される環境に疑問を抱く彼女は、直情的な行動を優先する水島と出逢うことで、改めて人という存在の有り様を意識的に思案する。

アデリーンは、水島が巻き添えを受けた事件の核心に迫る存在だった。真実を希求する彼女は、共に縛られた境遇でありながらも、対照的に勇敢な行動を示す水島に刺激を受ける。彼女は人の採り得る可能性を彼の姿に見出し、沈鬱な心を拭い払うように積極的に事件に干渉することを決意していく。
やがて、アデリーンは水島の裏表のない実直な人柄に惹かれ、水島は彼女の強大な能力に恐れを抱きつつも、少女が宿す感傷的な心情に徐々に共感していく。そして、二人は感応する互いの存在が、自身の苦悩を柔らげる緩衝として必要な存在なのだと理解し合う……。


男女の恋愛模様を織り交ぜながら、物語は先端科学における飽くなき理想の探求と人間的な元来の脆く揺れる情動が、地球を模した(テラフォーミング)近未来の火星上で、物憂げに叙情的に主張される。
不可解な謎に潜む権力との孤独な闘争に恋愛という感情が加えられる物語性は、従来から広く踏襲される類型的な構図ともいえる。しかし、本書は火星を舞台にした近未来SF小説であり、過激なハリウッド風アクションで興奮と疾走感を与える物語であり、更に揺るがぬ自身の判断や信念を貫き通すハードボイルドや、サスペンスによるドラマ性を演出すると共に、既存の人類を超越する超能力者の苦悩を表現するサイキック・ファンタジィ、そして男女の淡い恋心を表現する恋愛小説とも広義に受け取れる、分類不可能な要素が多分に凝縮されたエンターテインメント性溢れる小説となっている。

先端科学が到達した、火星という非なる地球が空想される世界では、新たなる挑戦に必然的に潜む苦悩であり、人の進化が及ぼす、未だ仄暗い光が照らされた段階に過ぎない未開の昏冥たる状況が提示される。
だが、やがて宇宙に適応していく人類の未来、その進化途上のアデリーンという少女と、地球の重力に縛られた、感情が率先し行動する水島という男性の存在――ふたりは確かに異なる部分も多いのだが、互いに人である以上、本質において深い共感を感応するほどに彼らは意識を共有することができた。それが著者が示す、未来の人類の姿が映し出された物語としての提言であり、弛まぬ科学の進化に託された希望の描写であるのかもしれない。

その、物語の最後でふたりが辿る運命の結末は……。
本書の更に興味深い点は、文庫版は単行本から大幅に改稿されており、結末が全く異なる様相として表現されていることにある。要は、ゲームなどで頻繁に見られるマルチエンディングの形式を採用しており、著者はもう一つの解釈として考えられる結末を文庫/単行本で読者に提示している。
実際に単行本の終章も読んでみたが、本意ではミステリ的な側面が弱いと実感した文庫版よりも単行本版の方が妥当な結末かと思われた。つまり、単行本版の解釈がやはり本来の解として用意され、文庫版はよりふたりの関係性を重視する傾向が強い解であるように捉えられた。

また、何より本書の非凡な点は、21世紀に夢見ていた近未来の世界観が、秀逸に火星に形成されているSF的背景の確立にある。
現在でも想定可能な技術が実用段階として活用されている空想社会は、科学が正当かつ着実な歩みで発展した近未来として、違和感なく構築されていると物語から実感できる。その科学的な背景が整った、火星という近未来における舞台で繰り広げられる、愛と友情と迫力のアクションとサスペンスと超能力が渾然一体と表現される仄暗い物語詩、それが「火星ダークバラード」というSF小説だろう。
アデリーンという少女に象徴される、人類の進化という未来の萌芽を人自らが創り出す冥闇ともいうべき行為の是非が、この物語では哀歌のように詠唱される。重力に縛られない新たなる人の意思が、いずれ人としての深遠な進化を齎すのか、それともやはり、人は人であり人であろうと永遠に懇願し続けるのだろうか……未来への夢想は陶然と尽きない。



『人間は内面が脆くて弱いからこそ、強くあろうとして勇気を奮い起こすものなのかもしれない。醜く惨めな本質を持つからこそ、どこかに、本当に美しい真実があるかもしれないと夢想するのかも……』