常磐公園の謎 | 神社仏閣旅歩き そして時には食べ歩き

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還暦を過ぎて体にトラブルが出始めて、ランニングを楽しめなくなりました。近ごろはウォーキングに軸足を移して道内の神社仏閣を巡り、御朱印を拝受したり霊場巡礼を楽しんでいます。いつかは四国八十八ヶ所巡礼や熊野詣をすることが夢です。by おがまん@小笠原章仁

 実はいままで知りませんでした。

 旭川市の常磐公園までバスで行こうと思い、時間を検索して調べました。ところがそのバス停は「存在しない」と出てきます。不思議でたまりませんでした。

 で、よくよく調べると、私が検索していたのは「常盤公園前」で、バス停は「常磐公園前」でした。字を間違っていたら「存在しない」と言われても無理ありません。

 しかし……それはそれで私の中に大きな疑問が残ったのです。なぜなら、周辺の町名や通りの名前は、「常盤町」だったり「常盤通」なのです。公園だけが常磐公園なんです。これってミステリーだと思いませんか?

 で、ちょっと調べてみました。

 平成28年5月に発行された「常磐公園 百年の記憶」というパンフレットに、公園の歴史が詳細に記録されていました。

 


 それによると、大正5年に常盤公園が誕生しました。これは周辺の字名の常盤町から充てられたのだろうと推測されていて、当時の役所の公文書や新聞などでもこの文字が使われていて、たしかに常盤公園だったようです。

 当時のこのあたりは牛朱別川(うしゅべつがわ)の氾濫が繰り返されており、大規模な切替工事が実施されました。その最中、昭和3年に当時の第七師団長・渡辺錠太郎陸軍中将(後に二・二六事件により殺害されます)により揮毫された園名碑が設置されました。この園名碑は昭和10年に移設され、現在に至っています。

 



 この園名碑に刻まれた文字が、「常磐公園」です。そのため、渡辺師団長が、常盤と常磐を間違えたのではないかという説がありますが、渡辺錠太郎氏のご令嬢が旭川を訪れたとき、「父がそのような単純な間違いを犯すとは考えられず、深い意味があったのでしょう。皿は割れるが石は割れない。永久に続く」と話されていたとのことです。しかしそれについても確証のある話ではなく、真相は不明のままです。

 ただ大正8年製図の大日本帝国陸地測量図や昭和2年発行の本田親美翁傳にも「常磐公園」と書かれているそうで、当時から頻繁に常盤と常磐が混用されていたようです。それがこの園名碑の設置以降は「常磐公園」として決定されたということになり、いわば渡辺師団長が「常磐公園」の名付け親と言えるのかもしれません。