スズメバチ
すっかり秋も深まってきたとある平日。いつものようにJR市ヶ谷駅から会社に向かって、テクテクと歩いていた。
ステキな秋晴れの日だった。
風に乗ってふわふわと、かすかな甘みを含んだキンモクセイの香りが漂ってきて、思わず匂いのもとに吸い寄せられそうになる。俺の通勤路は東京のど真ん中を走ってはいるが、大通りから3ブロックも4ブロックも隔てた住宅街の小道なので意外なほど緑が濃かったりするのだ。
この日もいつものように、キンモクセイの香りに釣られてフラフラと小道を歩いておりました。キンモクセイの香りを楽しめるのは1年のうちで1週間かそこらしかないので、嗅げるだけ嗅いでおかないと損した気分になるんだよね。
あー……。それにしてもいい匂いだ……。キンモクセイの香りがする芳香剤はいくらでも出ているけど、やっぱりナチュラルなこの香りにはかなわないよな。
クンクンクン……。
匂いを嗅ぎながら、小さな公園に入っていく俺。この公園には小さなキンモクセイの木が生えているのだ。匂いにうっとりとしながら、キンモクセイの木にじりじりと近づいていく。おお、やっぱり満開だ。山吹色の小さな花が、線香花火のようにチラチラと咲いているではないか。
その花のひとつに、そっと鼻を寄せる。ゼロの距離で思いっきり、キンモクセイの香りを吸い込んでやろうと思ったのだ。いまや俺とキンモクセイの距離は、ゼロとは言わぬまでも20センチほどまで縮まっている。さあ吸い込むぞ。このピュアな芳香により、最近悩みの加齢臭までほのかなキンモクセイ臭になるのではなかろうか。そっと息を吐き出し、その反動で鼻から空気を吸い込もうとする俺。しかし、そのときだった!
ガサガサガサッッッ!!
いきなり眼前15センチのキンモクセイの花が横に避けられ、その隙間からニョッキリと、とんでもない生き物が顔を出した。俺の身体を流れる血が、一気にサーーーーーッと足元まで落っこちる。俺は根が合わなくなった歯をカチカチとぶつけながら、震える声でささやいた。
「ススススス、スズメバチ……!!!!」
確実に2秒くらい、俺とスズメバチは見つめ合っていたと思う。「たった2秒」と思うなかれ。その気になればひと刺しで、疲れきった泥人形のような編集者など絶命させられる戦闘力を持った生物とにらめっこをしているのだ。その時間として、2秒はあまりにも長すぎる。2秒の間に、俺の脳裏にいろいろな想いが駆け巡った。
(弾が全弾入ったピストルでロシアンルーレットするようなものだなナンで俺はあのときあいつに告白しなかったのかな刺されると痛いだろうな目黒に100円貸したままだったナこいつはヒメスズメバチかなキイロスズメバチかなお砂糖は大サジ2杯だっけな3杯だっけな死ぬ前にビール飲みたかったなTSUTAYAのビデオが延滞になっちゃうな……)
人は事故にあった瞬間、それまでの人生が走馬灯のように脳裏に蘇ると言われる。それと同じような現象が、必殺の毒針を持つ目の前のスズメバチによってもたらされたとして、何の不思議があろうものか。
しかしいつまでもそこで目を合わせていて、スズメバチに惚れられても困る。なので俺は、これ以上は絶対にムリってくらいゆっくりと後ずさり、スズメバチを見つめたままこうつぶやいた。
「俺は、何も、見なかった」
いまだに歯の根が合わない口で、ピュルルルル~と口笛を吹こうとする。しかし恐怖のためか音は鳴らず、フーッフーッとむなしく空気が漏れるだけ。頼むよ……。見逃してくれよ……! ところがそんな願いはいっさい通じず、俺の後ずさりと歩調を合わせるように飛び立ったスズメバチは、「ブーーーーンッ!!」という虫とは思えない大きな羽音を轟かせながら俺の顔に向かってきた。俺は、自分で言うのもナンだがかわいそうなくらいうろたえて、髪の毛の先から出たんじゃないかと思えるほど素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「きゃ、きゃああぁぁああぁ!!」
ミサイルのように飛び出したスズメバチは俺の前髪を掠めるほどの近距離を通過して、すっかり高くなった秋の空に吸い込まれていった。そしてそのまま、消息を絶つ……。蜂とは思えないほど大きな身体で存在を主張していたのに、恐怖を振りまくだけ振りまいたらウソのように消えてしまった。この恐怖に彩られた1分ほどの時間は、キンモクセイの香りに魅せられた俺が見た白昼夢だったのだろうか? そう思ってしまうほど、スズメバチは見事に消え失せたのでありました。
「しょ、所詮は虫だよな。こっちが何もしなけりゃ襲ってきたりはしないんだよな。知ってたけどね。ハハハハハ。あーちっとも怖くなかった」
ブツブツと念仏のようにそんなことを言いながら、再び歩き出した俺。ところがしばらく歩いたところで、腰の辺りにぶら下げていた布製のショルダーバッグが、やたらと「ガサガサガサ!」とイヤな音を立てていることに気づいてしまった。な、なんだよこの音は……。なんかこう、脚が何本か生えている生き物が布を引っかいているかのような、耳障り極まりないヘンな音……。
俺は恐る恐る、背中側にあったショルダーバッグを腹側に回してみた。ゆっくりと、慎重に……。「な、何もいてくれるな……!!」。そんなことを願いながら。しかし、俺の願いは神様には届かなかったらしい。俺は再びそこで、"ヤツ"との2秒間の見つめ合いを演じた。
「きぃぃいややああああ!! ス、スズメバチぃぃぃいい!!」
その後のことは、あまり書きたくない。
ステキな秋晴れの日だった。
風に乗ってふわふわと、かすかな甘みを含んだキンモクセイの香りが漂ってきて、思わず匂いのもとに吸い寄せられそうになる。俺の通勤路は東京のど真ん中を走ってはいるが、大通りから3ブロックも4ブロックも隔てた住宅街の小道なので意外なほど緑が濃かったりするのだ。
この日もいつものように、キンモクセイの香りに釣られてフラフラと小道を歩いておりました。キンモクセイの香りを楽しめるのは1年のうちで1週間かそこらしかないので、嗅げるだけ嗅いでおかないと損した気分になるんだよね。
あー……。それにしてもいい匂いだ……。キンモクセイの香りがする芳香剤はいくらでも出ているけど、やっぱりナチュラルなこの香りにはかなわないよな。
クンクンクン……。
匂いを嗅ぎながら、小さな公園に入っていく俺。この公園には小さなキンモクセイの木が生えているのだ。匂いにうっとりとしながら、キンモクセイの木にじりじりと近づいていく。おお、やっぱり満開だ。山吹色の小さな花が、線香花火のようにチラチラと咲いているではないか。
その花のひとつに、そっと鼻を寄せる。ゼロの距離で思いっきり、キンモクセイの香りを吸い込んでやろうと思ったのだ。いまや俺とキンモクセイの距離は、ゼロとは言わぬまでも20センチほどまで縮まっている。さあ吸い込むぞ。このピュアな芳香により、最近悩みの加齢臭までほのかなキンモクセイ臭になるのではなかろうか。そっと息を吐き出し、その反動で鼻から空気を吸い込もうとする俺。しかし、そのときだった!
ガサガサガサッッッ!!
いきなり眼前15センチのキンモクセイの花が横に避けられ、その隙間からニョッキリと、とんでもない生き物が顔を出した。俺の身体を流れる血が、一気にサーーーーーッと足元まで落っこちる。俺は根が合わなくなった歯をカチカチとぶつけながら、震える声でささやいた。
「ススススス、スズメバチ……!!!!」
確実に2秒くらい、俺とスズメバチは見つめ合っていたと思う。「たった2秒」と思うなかれ。その気になればひと刺しで、疲れきった泥人形のような編集者など絶命させられる戦闘力を持った生物とにらめっこをしているのだ。その時間として、2秒はあまりにも長すぎる。2秒の間に、俺の脳裏にいろいろな想いが駆け巡った。
(弾が全弾入ったピストルでロシアンルーレットするようなものだなナンで俺はあのときあいつに告白しなかったのかな刺されると痛いだろうな目黒に100円貸したままだったナこいつはヒメスズメバチかなキイロスズメバチかなお砂糖は大サジ2杯だっけな3杯だっけな死ぬ前にビール飲みたかったなTSUTAYAのビデオが延滞になっちゃうな……)
人は事故にあった瞬間、それまでの人生が走馬灯のように脳裏に蘇ると言われる。それと同じような現象が、必殺の毒針を持つ目の前のスズメバチによってもたらされたとして、何の不思議があろうものか。
しかしいつまでもそこで目を合わせていて、スズメバチに惚れられても困る。なので俺は、これ以上は絶対にムリってくらいゆっくりと後ずさり、スズメバチを見つめたままこうつぶやいた。
「俺は、何も、見なかった」
いまだに歯の根が合わない口で、ピュルルルル~と口笛を吹こうとする。しかし恐怖のためか音は鳴らず、フーッフーッとむなしく空気が漏れるだけ。頼むよ……。見逃してくれよ……! ところがそんな願いはいっさい通じず、俺の後ずさりと歩調を合わせるように飛び立ったスズメバチは、「ブーーーーンッ!!」という虫とは思えない大きな羽音を轟かせながら俺の顔に向かってきた。俺は、自分で言うのもナンだがかわいそうなくらいうろたえて、髪の毛の先から出たんじゃないかと思えるほど素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「きゃ、きゃああぁぁああぁ!!」
ミサイルのように飛び出したスズメバチは俺の前髪を掠めるほどの近距離を通過して、すっかり高くなった秋の空に吸い込まれていった。そしてそのまま、消息を絶つ……。蜂とは思えないほど大きな身体で存在を主張していたのに、恐怖を振りまくだけ振りまいたらウソのように消えてしまった。この恐怖に彩られた1分ほどの時間は、キンモクセイの香りに魅せられた俺が見た白昼夢だったのだろうか? そう思ってしまうほど、スズメバチは見事に消え失せたのでありました。
「しょ、所詮は虫だよな。こっちが何もしなけりゃ襲ってきたりはしないんだよな。知ってたけどね。ハハハハハ。あーちっとも怖くなかった」
ブツブツと念仏のようにそんなことを言いながら、再び歩き出した俺。ところがしばらく歩いたところで、腰の辺りにぶら下げていた布製のショルダーバッグが、やたらと「ガサガサガサ!」とイヤな音を立てていることに気づいてしまった。な、なんだよこの音は……。なんかこう、脚が何本か生えている生き物が布を引っかいているかのような、耳障り極まりないヘンな音……。
俺は恐る恐る、背中側にあったショルダーバッグを腹側に回してみた。ゆっくりと、慎重に……。「な、何もいてくれるな……!!」。そんなことを願いながら。しかし、俺の願いは神様には届かなかったらしい。俺は再びそこで、"ヤツ"との2秒間の見つめ合いを演じた。
「きぃぃいややああああ!! ス、スズメバチぃぃぃいい!!」
その後のことは、あまり書きたくない。