一つ前のブログの最後に、『本人が「何がなんでも」と思って頑張ることは尊いと思っていますが、親も含めた周囲がそのような声かけをすることは、実はあまり私の好みでありません。』ということを書きました。今日はこの話についてもう少し書きたいと思います。
 
なお、単なる「私個人の」「好み」の話ですので、考えの違う方は目くじら立てずにスルーしていただけると幸いです。

 

 

性格にもよるでしょうが、「何がなんでも」系の声かけを続けられて“残念な”結果になったらトラウマにもなりかねない心の傷を負うことは想像に難くないと思います(そして中学受験は第1志望校に合格できる人が1/3とも1/4とも言われているような世界ですから…)

 

一方で、合格すればいいのかと言うと、「何がなんでも」系の声かけを受けてきたうえで合格すると、選民思想(勝ち組だの負け組だの…)やこじれたコンプレックス(プライドが高いのにコンプレックスも強め…)を持つことにつながりやすいということが言えます。

 

やり切ったと思える準備(努力)をすることは後悔を残さないという観点では大事ですが、実際の受験では当日の諸々(体調、メンタル、出題内容、その他諸々)による運や偶然の要素も少なくありません。何があってもひっくり返らないほど圧倒的な余裕をもって合格する人もいるのは確かですが、合格者の多くはもう一回受けたら入れ替わる程度の差で合格しているのもまた事実です。

 

 

なので、「不合格だったとしても努力が足りなかった」なんて捉える必要はないし、逆に「合格したとしても不合格だった人より努力したんだ」なんて捉えることは不遜な考えだと私は思っています。
 
そもそも、世間では決まった評価があったとしても、自分にとって本当はどっちがいい人生になるかは「後から」「自分に」しか分かりません。ならば努力して望む結果にならなかったとしても、縁があった場所でいかにそこを良いものにしていくかこそが大事です。
 
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ですから、「努力しても報われなかったらどうしよう」なんて心配は無用です。努力はたとえ目先では報われなくても、長い目で見れば報われます。安心して、最後まで自分なりの努力をすれば大丈夫。それでどんな結果になったとしても大丈夫。
 
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