「死にたい」と思ったとき | 『自分と家族の健康は、自前で築く』整体カウンセラーのブログ

梅雨になると、宗教に入りたくなる人が多くなります。

 

湿気で肺が下がるからですね。

 

こうなると、余分に不安になったり、

余分に悲しんだり、余分に怒ったりします。

自分でもおかしいと思うのですが、

これはもう意志では止められないのです。

それで帰依、入会したくなります。


 

でも元は、体の問題です。

だから肺が上がれば、何ともなくなります。

 

宗教がイケないとは全く思いません。

むしろ普通の人には、あった方がいいです。
ない現代の方が異常だし、おかしいと私個人は思っています。

なので、肺が上がった状態で取り組むと、なお良いかと思います。

 

 


 

一方、

人によっては、自殺を画策する人もいます。

私も整体を知る前でしたが、

この梅雨の時期にそんな思いになったことがありました。

 

もう20年前のこと。

体があまりに不都合なので

「もうこの人生、辞めてさ。

別の肉体にしてから、やり直させてくれんか…」

と思ったことがありました。

 

状況がツラくて寂しくて、逃げたい一心だったのです。

 

だけど、あの世があったとしても、

次の肉体が今より楽なものを割り振られる、

なんて保証は何処にもないですよね。

世の中に大変な肉体や、その環境下の人はゴマンといることは、

テレビでも見て分かっていましたし。

まして「死ねば楽になる」、という保証もない。

 

そもそも「この現世より、あっちには広い選択権はあるのだろうか?」

とも疑問に思いました。

 

強制的に今と似た環境に生まれ直させられて、
同じ苦しみを味わされ、またここまで来なければならない
そんな可能性も捨て切れません。

 

「それなら、今は曲がりなりにもここまで来ているのだから、

続きをやろう」とも思いました。

「再度、昔の様な酸辛を、繰り返したい」とは、この時思わなかった。
本気で頼めば、分かり合えるし、助けて貰えることも、
まだある状態がこの世です。

日本は世界で優位な国だし、居住環境も社会保障や衛生面も悪くない。

「だったら、もう少し頑張ってもいいのではないか?」

「何か簡単な突破口が、手近にあるのかもしれない」

と思ったりしたものです。

 

 

当時読んでいた手塚治虫さんの『火の鳥』や、

先の戦争に行った人々の手記を読んでいたことも、

大きく影響したかもしれないですね。

 


 

医療が発達した現代ですし、

イザ自殺を試みても向こうに行けず、

命が残ってしまう危険性もありますからね。

 

そうなると、悲惨です。

生きながら、もっと不都合な体になる。

そんな可能性も十分ありました。

 

「ナント分の悪すぎる賭けを、選択肢としているのか!」

と思ったものでした。

 

「突破口があるかもしれないし、ないかもしれない。

だけど、ダラダラでもいいや。とりあえずは生きてみよう」

そんなことを思ったことを覚えています。

 

 

 

そして、それからすぐ後のこと。

 

肚を決めて生きた経験も、

自分の力を叩きつける様にして道を切り開いた経験も、

感謝と感動、真の助け合いと協力の中で生きた経験も、

私にはまだないことに、気が付きました。

 

これらをやれている人は多くいるのに。

私より大変な状況から、やってのけている人も沢山いるというのに。

 

「ああ、オレは何をやってたんだ。

何もやってない内に、死のうとしてたのか」

と気が付いたものでした。

 

自分の命や力を使うことより、

自分の薄っぺらいプライドや見栄を守ったり、甘え依存を優先していたこと、

自分を自分で殺したままであることに、気が付いたのです。

 

この時になって、初めて分かりました。

「後1分で命が尽きるなら、オレは後悔する。

もし目を再度開けられるなら、心を入れ換え、この続きを生き直してみたい…」

と。

 

 

気が付けば、いつの間にか寝ていました。

寝て覚めた時の世の中は、当然何もそれまでとは、変わっていません。

だけど、私にとってその見え方は、それまでとハッキリと違っていたのです。

これ以来、生きながら死んでいるかの様な生き方を
するのを止めました。

 

 

 

夜明け前が一番暗いんです。

 

「後数分、何もしないでいるか、ゲームでもやっていたら、

夜明けがやって来た」

そんなことも、ないとは言い切れない。

 

もし死んで、びっくりするような大チャンスが来るまでに、

「後数分だったのに」

「後数日だったのに」

と分かったのなら、どれほど後悔するかとも思いました。

 

結果、そのままだったので、今に至れています。

生き残って良かったと、2倍になる歳の今、思います。

これを可能にしてくれた母や父、色々な方々に心底感謝です。

 

夜明け前が一番暗い。

 

そして、夜明け前に手にしている経験。

これこそが、夜明け後において、

大きな指針・決定的な決め手になるのです。

 

一番暗い時を経験している時は、

強力無比なコンパスを手にしている時なのです。

これを捨ててしまうのは、本当にもったいないことです。

実感があるので、こう言えます。

 

心底痛快で楽しみにしていた、舞台の幕が開く瞬間だからです。

 それを

「幕がまだ上がっていないから」と、

本番公演直前の劇場を後にしては、もったいないのです。

もったいな過ぎるのです。

私個人は他人様を慰めるような男ではないのですが、

こう思います。

 

 

 

まあ、そもそも生きているってこと自体が不思議ですよ。

毎秒60万だかの生体化学反応が間違いなく起きているからこそ、

私達は命が繋がります。

 

また、富士山がバーンと行っても、

彗星や隕石がチョロッと地球をかすっても、
地軸がコロッとずれたりしても、

炭素原子組成の私達なんて一人残らず、ひとたまりもないんですからね。

 

 

 

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(写真は、2013年チェリャビンスク州の隕石。wiki より)

 

 

 

 

通行中にトラックや乗用車がハンドルミスや居眠りで、
ツルッと滑ってきても終わるし、

凶猛なウィルスが間違ってフラッとやってきても、サヨナラとなる。

 

 

生きているようで、実は生かされている結果にしか過ぎない。

これが現実なのです。

 

私達は本当に奇跡的な確率の中を、その連続をたまたま命が繋がれているのです。

科学的に調べれば調べるほど、これは本当なんですよ。

 

私達のこの命は私達の力で生きてはいない、生かされているのです。

 

だったら、

自分で生きていない命を、自分で摘まみ取るのは、

お角違いだろう。

その日、その時がくるまで、

自分なりでいいから邪魔せず、繋いでおくのが本来かなと。

今の私は思います。

 

 

 

そもそも私達が生まれたこと自体が、奇跡的なことですからね。

だったら、奇跡的な何かを今後成し遂げることだって、可能であると言えます。

既に奇跡を起こしたから、そこにいられるし、い続けられるのですからね。

 

私自身を振り返れば、ここまでの回復は奇跡そのものでした。

同じ人間であるあなたにもできない理由は、ないんですよね。

少なくとも、「死んで楽になる」という可能性よりは、遥かに明白です。

 

やるか、やらないか。

そうした問題なだけでしょう。

 

奇跡を信じ、奇跡を起こせるような具体的な行動とともに、

今日も一日過ごしてみて下さい。

 

良い梅雨を。

 


 

(感謝)


 


吉田直樹  拝