「黒子のバスケ」脅迫事件について書かれていたこちらのブログを読んで感じたこと。



容疑者に共感はできない。

だけれども、彼に自身の恨み辛みなど黒い気持ちを語る場があれば結果は違っていたかもしれないなぁと思うのですね。甘い見通しなのかもしれません。



語ることが許される場がなかったとしてもその恨みごとを言葉でどこかに表現出来てれいればぁ。



被告人の意見陳述でこんなことを吐露してます。



意見陳述全文公開1




自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります。
これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです。




この黒い想いを脅迫行為をする前に言葉にしていればアホらしくなって、犯罪の実行を見送っていたかもしれませんね。小さな悪意は小さなままで世に毒をまき散らさずに済んだのではないかな。



この私の考えを私は強く信じています。



社会的に置き場のない心やブラックな想いをないものにせず認めること=文章にする。
自身で意識して認めることで、黒い想いもっと別の行動力へと昇華していたかもしれません。



自分の想いを文章にする。

そして、自分で確認する。
機会があれば、他者に読んでもらう。



そんなささやかな行為で、被告人は多くの人を巻き込む愚かな行為とは無縁でいられたのではないかな。小さな悪意が小さなままで済んだのではないかな。



被告人は自分の悪意ある思いつきに、深い魅力を感じていました。犯行を重ねる内に小さな悪意が彼の中で大きく育ってしまった。大きくなった悪意に取り入られたのだと思うのです。




妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた




しかし、意見陳述で囚われていた悪意を発表し、傍聴人を前にその黒い想いを言葉にした時に、その悪意=想いが成仏したように感じるのです。



被告人は、脅迫事件を実行すること”想いを遂げた”のではなく、彼自身の黒い想いを発表することで、初めて自分自身が何に囚われていたのかに、気づけたのではないでしょうか。



勿論犯罪は許されるものではないです。罪を償って欲しい。想いを言葉にして客観視できていたとしても、彼が犯罪者にならないという保証はありません。



ですが、想いを文章にすることで心の有り様が変化する。
そのように強く思います。
表現をするというその行為に、何か特別な働きがあるように思うのです。