ヌース理論の半田広宣氏は
「フラットランド」という小説を題材にして
「認識はどこから生まれているのか」を説いています。
フラットランドという
【平面の世界】があるとします
平面世界の住人である【♂の形をした長友くん】が
もし【♀の形をした平ちゃん】に出会った時、
お互いをどのように認識するでしょうか。
少し 考えてみてください。
わかります?そう。
長友「僕のアモーレです(平(面)だけに)」
じゃなくて
【線でしか認識できない】のです。
要するに 2次元の住人は 1つ下の1次元である
その背丈ぶんの直線にしか見えません(幅が認識できない)。
では、これを私たち3次元の物質世界に
応用すると お互いをどう認識するでしょうか?
このロジックでいくと
1次元下でしか認識できないので
他人を漫画みたいに平面存在としての認識が起こるはずです
しかし 我々は明らかに 他人を
平面ではなく 奥行きのある3次元物体として
相手を認識しています。
つまり 私たちの「見ること」の認識の源は、
3次元空間から見ているのではなく、
4次元以上にいないと
この3次元空間は認識できないわけです。
このことから
現実世界を見てる自己は、
本当のところは、この世界の中にいない、
ということが明らかになるのではないでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=B2kWds9T5X4
日本にも 「六根清浄大祓」という祝詞の中に
少し似たようなことが書かれています
目 に 諸 の 不浄 を 見 て 心 に 諸 の 不浄 を 見 ず
耳 に 諸 の 不浄 を 聞 きて 心 に 諸 の 不浄 を 聞 かず
鼻 に 諸 の 不浄 を 嗅 ぎて 心 に 諸 の 不浄 を 嗅 がず
口 に 諸 の 不浄 を 言 ひて 心 に 諸 の 不浄 を 言 はず
身 に 諸 の 不浄 を 触 れて 心 に 諸 の 不浄 を 触 れず
意 に 諸 の 不浄 を 思 ひて 心 に 諸 の 不浄 を 想 はず
(超訳すると)
あなたが どんな苦しい目にあっても
どんな聞きたくない言葉を言われたとしても
どれだけ悪口や不平不満を言ったり
逆に それらの言葉を飲み込んできたとしても
あなたの最も深い部分は汚すことも
傷つけることもできないよ。
なぜなら 本当のあなたは 生まれることも死ぬこともない
「存在(全体性)」で出来ているから
(この祝詞の中の「心」は 「存在(全体性)」と訳しています)
ちなみに 映画監督のタルコフスキーは
「1+1=1」と作品内で 表現し続けてきましたが
1滴の水と1滴の水を 足しても
1滴の水じゃん?
我々も根源は同じ一つのもの(モナド)なんだよ、
というのがタルコフスキー作品のモチーフになっています
個人(幻想)は生きている中で 突然
大事なものををうしNOWことがあります。
あなたも いつか
カラダを うしNOWし、
わたしもいつか すべてをうしNOW。
でも NOWは 失われない。
本当のアナタは 失われない。
だから 本当は はじめから
怖いものなんて何もなかった。
最後にもう一度おさらいします(ここテストに出ます)
現実世界を見てるアナタは、
本当のところは、この世界の中にいない、
今日もポチっとよろしくお願いします
↓こちらも1日1クリックよろしくお願いします
■(Facebookをしていない方で)カウンセリング、個人セッション等に関するご質問、ご相談、感想などは、こちらのフォームまで!